つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第四章 西郷隆盛がロシアから戻って来る?(続き)

 

 京都四条通りは、東方の果てに八坂大社があるので、人通りが絶えない。

 通りに間隔をおいてきちんと植わっている柳は青々として地面を這うようだ。ときより強めの風になびき、通りの人の顔もなでる。

 北座は四条通りの鴨川近くで、前には南座がある。柳のさらさらとした動きがどっしりした北座の赤い看板をさらに際立たせていた。

 北座の舞台で今、かかっている公演は大阪の尾上亀之丞一座の「赤穂浪士をめぐる女絵巻」だ。

 この公演で準主役を張っている尾上小亀のところに、若い男が訪ねてきた。祇園で生活しているときに知り合い、今は四条大宮の呉服問屋「椎葉屋」の若旦那に収まっている住吉喜三郎だ。

 喜三郎は祇園置屋「三升屋」の倅。家の近くで芸の習い事をしていた小亀、いや伊都と呼ばれていた磯とは幼馴染だった。

 もちろん、子供のころに男女の仲を意識したわけではなく、兄妹のように身近に接しているうちに、「喜三郎はん」「伊都ちゃん」という呼び方で自然に気持ちを通じ合わせて行った。

 稽古の辛さにめげたりしている伊都を見ると、「何、泣いてんのや。がんばり」と慰めてくれたり、花見の季節には手を引いて清水寺の境内に連れて行ってくれたり。

 喜三郎は老舗のぼんぼんを感じさせる甘い端正な顔立ち。その上、何かにつけ親切にしてくれるので、伊都は徐々に慕うようになった。

 しかし、伊都は自分の身の程をわきまえていた。

 芸妓は、将来水揚げという形で身体も商売の道具としなければならないし、金持ちの旦那も持たなくてはならない。所詮、添えぬ身の上と分かっていたので、磯も喜三郎への熱い気持ちを吹っ切ろうと、よそよそしい態度を取っていた。

 そして、別れは自然に来た。喜三郎は二十歳近くなって、「椎葉屋」の一人娘の婿候補として養子に入ったのだ。伊都は落胆したが、これも運命と思い、芸事により一層熱中した。

 大阪道頓堀の演劇一座の看板役者、尾上亀之丞が贔屓の旦那衆のお供で祇園に遊びに来たのは、それから間もなくだった。

 伊都も十五を過ぎて、娘から女の身体に変わっていた。

 亀之丞は舞妓として出てきた伊都の芸、とりわけ体のしなやかさに目を見張った。

 「彼女の踊りは、若い割には色気があって素晴らしい。ぜひ親御さんと連絡を取りたい」

 亀之丞のたっての願いに、後見人になっている小百合を通して岡田貞子に連絡が行った。

 「娘さんはえらく筋がええ。芸妓にしておくにはもったいないくらいの華やかさを持ってはる。芸妓ではなく、芸人にする気はないでっしゃろか」

 岡田貞子も、わが娘同然に育ててきたために、伊都を芸妓にするのはいささかためらいがあった。加えて、本当は自分の子供でなく、永倉新八と小常やその姉の小駒から預かった女子であり、いずれは東京の縁者に返さなければならないと思ったからだ。

 貞子は悩んだ末に亀之丞に打ち明けた。

 「絶対本人には内緒にしてほしいんどすが、実は、あの娘は私が腹を痛めた子ではないんです。伊都と名乗っていますが、本当は磯と申します。あるお武家と島原の芸妓の間に生まれた子供です。その芸妓は産後の肥立ちが悪く亡うなってしまい、祇園の芸妓をしていた姉に引き取られました。ですが、その姉さまも亡うなってしまったので、乳母をしていた私が実子として育てましたんや」

 「さようでしたか。では、あなたの了解さえあれば、娘さんを一座に引き取ることはできますな。立派な芸人にしてみせましょうぞ」

 亀之丞の言葉にはいささか武家の言葉も混じった。

 事実、西国のある藩の武家の出身だった。武士の商法ならぬ武士の芸人だった。

 「でもな、亀之丞はん。私は本当の父親のお武家と約束したんどす。彼がちょうど戊辰の役の戦場に向かう時や、これが最後の目通しと思い、乳母の私がこの女児を抱いて見せに行ったんどす。幕府方のお武家さまです。彼は、もう死を覚悟しておりまして、娘をぜひ江戸にいる実家の方に届けてほしいと言い残しはりました。心残りだったのでしょうね」

 「ほう、そのような事情が…」

 「私は当時、子供を江戸などに送るのはとても無理やと思いましたが、切羽詰まった相手のことを考えて、承知しましたと答えたんどす。…ですが、昨今、陸蒸気が盛んに造られ、間もなく東京までも通るようなことを聞きました。あながち無理ということものうなりました。ですから、娘を一度、東京に連れて行き、所縁の人に会わせなければなりません」

 亀之丞はしばらく思案顔をした。

 そのあと言葉を選び、若干言葉の調子を変えて話し出した。

 「儂らは、今は上方での公演が主ですが、将来は東京にも進出しようと思うとります。ですから、一座で東京に行くこともあるでしょう。儂に任せてもらえば、娘さんを東京の所縁の方に引き合わせることも可能です。それも約束しましょうぞ。どうかお義母さんの方から説得してもらって、娘さんを一座に引き取らせてください。どないですか」

 貞子は、伊都が亀之丞一座に加われば、東京行きも可能であると思い込んだ。さらに、今の自分の身の上からして、陸蒸気に乗って二人で東京まで行くのは無理だろうとも思っていた。

 自宅に戻った貞子は伊都に対し、「演劇に興味があるか。亀之丞一座に加わっても良いか」と聞いた。伊都は、喜三郎との一件で好きな人とも別れなければならないという芸妓の切なさを思い知っているので、貞子には前向きな返事をした。

 いや、喜三郎との別離だけでなく、伊都は祇園の馴染みの客に連れられて北座、南座に行き、そこで催される演劇を見て、関心を持っていたのだ。だから、大して悩むこともなく、芸妓の道を捨て、演劇で生きる決断をした。

 十六になった伊都は祇園を離れ、大阪に赴いた。尾上小亀という芸名をもらって本格的に演劇を習い始めた。大きな声を出す必要がある舞台芸と歌舞音曲を主にする座敷芸は違う。だが、体全体を使うことに変わりはない。

 生来の華やかさを持つ伊都いや磯は、もともと芸事の経験があったこともあって、一座の中でもめきめき頭角を表し、上方演芸界の大女優になっていった。

 

 今は呉服問屋「椎葉屋」の若旦那になった住吉喜三郎が伊都と会うのは七年ぶりくらいのことであろうか。

 北座の楽屋は狭いので昼休憩の時間を使って、近くの茶屋に入った。四条通りは二人が祇園にいたことから慣れ親しんだところだ。

 「久しぶりやのー、伊都ちゃん。元気そうやな。…それに舞妓のころよりずっときれいになった」

 喜三郎はためらいがちに久闊を叙す言葉を切り出した。

 「喜三郎さんこそ。若旦那ぶりが板についてきた感じがしはりますよ。ともかく、お元気そうで何よりどす。お商売も順調どすか」

 小亀は、久しぶりに喜三郎に会った胸の高鳴りを隠すように何気ないふりをして聞いた。

 「まあまあやな。伊都ちゃんが大阪の演劇一座に入ったことは、祇園の小百合さんから聞いたんや。えらい人気になっとるそうやないか。立派なものや」

 喜三郎と伊都いや小亀は昔話を肴に時間の隔たりを忘れたように会話を弾ませた。

 そんな中でも、小亀は喜三郎の胸の内にわだかまりがあるのを察知した。時折、目を伏せ、ため息をついていたからだ。

 「喜三郎さん、さっきから何や変やで。心配事でもあるん違いますの」

 喜三郎はちょっと言いよどんだが、昔馴染みという安心感からか、心の内を吐露した。

 「実はな、米相場に手を出して、大負けしてしもうたんや。お商売にも差し支えか出るほどの金が飛んでしまった」

 大阪堂島の米会所は江戸時代からあり、日の本一の米相場が立っていた。江戸時代での相場師は豪商のみに限られていたが、明治期に入ると、小金を持った商家の旦那衆がそれに参加するようになった。椎葉屋の住吉喜三郎もそんな一人だった。儲けも大きいが、損の額も大きい。かなりの危険が伴うばくちにも似た投資だ。

 小亀も喜三郎が手を出していた米相場のことは知っていた。

 「難儀やねー。でも、そんなん言われても、こちらだってお金ないし、助けようがない」

 伊都は喜三郎が金を無心しにきたのかと一瞬思った。

 「伊都ちゃんにお金で助けてもらおうなんて、思うてないよ。ただ、ちょっと頼みがあるんや」

 喜三郎はそのあとちょっと言いよどんでいたが、しばらくして、

 「米相場にはな、伊都ちゃん、いろいろ仕掛けがあるんや。米相場には豊作も不作もあるやろ。そこで、天候の偽情報を流すことで相場を動かすこともあるんやで」と続けた。

 「偽情報?」

 「そうや、偽情報で米を安値で買って高値で売りさばき、利ザヤを取るというものや」

 「ほう、そうなんや」

 小亀は贔屓にされている大店の旦那衆から、酒席に呼ばれたときに、相場の話を聞いていたが、偽情報の流布なんて仕組みがあるとは思いもよらなかった。

 「それでな、伊都ちゃんにちょっと頼みがあるんや。伊都ちゃんも芸人なら贔屓筋の旦那衆がおるやろ。その旦那衆の中には相場に手を出しているもんもぎょうさんおると思う。その旦那衆に、近い将来の天候の分かる人から聞いた話だと言って、今年は天候が順調で米が大豊作になるということを暗に匂わせて欲しいんや」

 芸人は金持ちの旦那衆を後見人としている。つまり、旦那衆は、贔屓の芸人の収入を安定させるため、舞台の切符を大量に購入し、関係者に配ったりして商売に役立てている。

 そのお礼に、芸人は旦那衆の飲み会の席に付き合わされることがある。小亀は大阪の人気者だから、旦那衆と顔見知りで、そういう機会が何度もあるだろうと、喜三郎は考えていた。

 「大豊作となると予想すれば、のちのち値段が下がるので、米を抱えている仲買人は今のうちに世の中に放出するし、今年の米の権利を買った人も転売する可能性がある。そういう売りが出たなら、儂は米を買い進む」

 「……」

 小亀には思いがけない話で、返答に窮した。

 「ところが、実を言うとな、伊都ちゃん。儂と親しい信頼できるお天気予想屋さんがいるんやが、彼が言うには、今年は逆に天候が不順になって夏は寒い日が続くと言うんや。つまり、今秋、米は不作となり、相場は確実に上がる。夏までにわれわれは米を安く買い取るから、のちに値上がった分で大儲けできるという仕掛けさ。どう、伊都ちゃん分かるか、成功すればお礼はたっぷりするよ」

 <そういう金儲けの方法があるのか>

 小亀は喜三郎の奇計に驚いた。はっきりした返事はしなかったが、再三の頼みに首は微かに縦に振っていた。

 外ならぬ喜三郎さんの頼みであれば、その程度のことはしてあげてもいいかなとも思った。(続く)

 上の写真は、東京・千鳥ヶ淵で見たシャガの花。