つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第四章 西郷隆盛がロシアから戻って来る?

 

 この墓参りの後に、小亀は大阪に戻った。

 尾上亀之丞一座による京都北座の公演「赤穂浪士をめぐる女たちの物語」は大成功だった。小亀は赤穂浪士の一人、岡野金右衛門を慕う町屋の娘を演じ、女心の切なさをにじませた演技は評判を呼んだ。そして、その芸名も知られるようになった。

 小亀にとって京都が地元だから、本来なら、舞台がはねたら地元の旦那衆と一席、二席と酒席を持ち、贔屓筋になってもらわなくてはならないところだ。京都にもタニマチになってくれそうなお大尽が多い。

 だが、大阪公演がすぐに迫っていた。楽屋に花を届けたり、おひねりを持ってきたりする客人には「すぐに京都に戻りますので、その時にまた」と丁重に謝辞を述べ、酒席への招待は断わった。

 大阪にも大勢の小亀ファンがいる。公演の演目は京都と同じ「赤穂浪士をめぐる女たちの物語」で、大阪でも観客の入りは良かった。

 ただ、木戸札(入場券)は芝居小屋先だけでなく、多くを商家の買い取りに頼っていたので、小亀は毎夜、幕が下りたあとに、商家の旦那衆の酒席にも顔を出し、ご機嫌伺いをしなくてはならなかった。

 亀之丞一座が世話になっている一団に、北浜の相場師グループがいた。相場師はグループの中心にいて、指示を出して売り買いを決める元締めだが、実際に力を持ち、羽振りを利かしているのは、資金を提供している堂島などの古い商家の旦那衆だ。

 ある晩、小亀はその一団の酒席に侍ることになった。

 小亀の名と美形は大阪では京都よりははるかに知られているし、贔屓筋も多い。酒席に呼ばれれば、誰もが小亀に群がって酌を求める。

 この日、曽根崎新地の料亭では、堂島にある呉服商の大店「柏屋」の主人善兵衛、金物卸問屋「西門屋」の主人言右衛門が小亀の前に座った。二人の脇にいて話に加わったのが相場師の前田源之助だった。

 「きょう芝居見たで、いつ見ても、あでやかでんな、小亀はんは。まあ、一杯どうや」

 善兵衛が杯を差し出しながら、切り出した。

 「おおきに、でもなー、旦さん、私なー、まだまだ修業が足りてへんと座長に言われてますんや」

 「いや、十分や。岡野金右衛門を慕う生娘の演技、泣かせたぜー」

 「それは、それは、おおきに」

 しばらく舞台の話になったが、小亀が住吉喜三郎の話を思い出した。

 「ところで、前田はんは相場師さんでっしゃろ。儲かってますのんか。儲かってたら、私も小銭持ってますさかいに、儲け話、乗せてくれはらしません」

 小亀は前田に向かって微笑みながら酌をした。小亀は、津田三蔵の仲間である前田とも顔見知りで、以前にも旦那衆との飲み会で話をする機会はあった。

 「儲けなー?ぼちぼちですな。…でも、小亀さんも相場に関心があるとはなー」

 「当然ありますよ。米相場など何だか博打みたい。半年先の値段を推量して売った買ったとやるのはおもろいと思います」

 「相場を張るには、近い将来の天候や社会情勢を読み、それに合わせて売り買いする。大儲けするには当然、自らの予測が当たらなければならない」

 「その辺のことは知ってはります」

 「では聞くが、小亀さんは今夏の天候をどう予測する、米の出来具合いをどう読む?」

 小亀がこちらから振りたい話を前田が切り出してきたので、びっくりした。専門家でない役者相手だから、半分以上、真面目に聞いている風には見えない。座持ち話にすぎないが、これは喜三郎から言われた話を出すチャンスだと小亀は思った。

 「それがね、前田はん。先般、二、三カ月先の天気が読めるという予想屋さんと偶然知り合いになったの。面白いこと言うてはったわ」

 小亀は前田が関心を持つように思わせぶりに言い方をした。

 「ほう、それで何言うたん?」

 「私が聞いた話だし、そのお天気屋さんがいい加減かも知れへんので、話半分に聞いてくださいな。彼が言うには、今年大方の予報では、冷たい夏になって不作になると言われているが、実は例年通りの豊作になるという話。豊作で米の値段が下がるから、事前に先物を買い進めると損するぜという話でした。前田さんはどう思いはる?」

 「それもありかも。でもなー、小亀さん、そのお天気屋さん。どれほどの根拠を持っているのか、ということやね」

 前田でなく、傍で小亀の話を聞いていた善兵衛が口を挟んだ。

 日本の気象予報は一八八三年(明治十六年)から始まっている。東京気象台ができ、天気図なるものが書き出されたのが発端。天気は西から変化するということも知られていたので、西の天気を見て二、三日先の天気を予想した。でも、この予報はあくまで直近の天気を占うもので、二、三カ月後の天候を占うなどはとても無理な話だった。

 したがって、民間は、経験豊富な天気屋さんに頼る。彼らは中長期予報をする際、今年は何々の花の開花が遅いとか、花弁の大きさが違うとか、蛙が鳴くのが遅い、その声がどうしたなどと自身の経験則に基づいて判断する。これらは先祖から伝承された予測法だ。

 天気屋さんには、それぞれ独自に信頼を置く自然の中の着目点がある。その着目点はもちろん企業秘密で、他人には漏らさない。その変化を見て総合的に占う。その着目事象が多ければ多いほど信頼性が増し、当たる確率が高くなり、得意先の評価も高くなる。

 「私の知るお天気屋さんは、これまでも自分だけ目を着けているところから数多く半年先の天候を当ててきたと聞きました。彼が豊作になるというなら、私、信じるわ」

 予測はすぐに結果として現れる。小亀の言うように過去に何度も予測を当ててきたなら、優秀な天気屋さんなのであろう。

 「ほう、今日は小亀さんから良い話を聞ませてもろうた。じゃ、米はは安値のままやな」

 善兵衛は小亀の話を満更でもないものと聞いたとして、ほくそ笑んだ。

 前田は、楽しい余興話を聞いたといった素振りだったが、その実、百パーセント否定するという感じでもなかった。そのため、その天気屋さんとは誰か、どういう予測方法か、もっと詳しく教えろと言わんばかりに小亀に手を替え品を変えして迫ってきた。

 小亀は喜三郎が仕組んだ話などと言えるわけがないし、事実彼が根拠とするお天気屋のことも知らないのだ。あくまで言葉を濁しつつ、「でも、信頼できる人よ」と念押しした。

 小亀の舞台慰労会が、いつの間にかぎらぎらした相場の話題に転じていく。前田や柏屋善兵衛らにとっては酔えない酒になってしまった。(続く)

 上の写真は大阪城をバックにした風景。