つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

7000メートル以上は神にゆだねる

higurashi-takanori2007-11-18

今回も、無酸素・単独で8000メートル級の山を登る若き登山家、栗城史多(くりき・のぶかず)君の話の続きです。
前回、彼は登山の成功を祈って肉食絶ち、女性絶ちをすると書きました。何かを成就するため、自分の好きなことを絶つというのはよくあることですが、その本質は、絶つことからの効果を期待するものではなく、そういう苦しみの中から自分の精神を鍛え直したい、何かを犠牲にすることで超人的な存在(それは神とも言えるでしょう)に”いけにえ”をささげ、ご加護を得たいという思いでしょうか。
苦しみがあれば、成功したときに、その喜びが倍加することは間違いありません。
栗城君の話でもうひとつ印象に残ったのは、7000メートルまでは自力で登れるが、それ以上の高さは自分の力だけではどうにもならない。山の神にお願いし、山の自然を感じ、山と一体化し、その力を自らのものとし、成し遂げるものであると言ったこと。若い割には、すばらしい謙虚さであり、ある意味の達観です。極限に入り込んだ人だけしか言えない言葉です。さらに、山の中ではいつでも楽観的であり、決して死を考えない。死ぬかも知れないと思うと、確実に死が近づくから、とも言うのです。
彼は続けて、なぜ下山中の遭難が多いかについて、それは登頂を果たしたことで当面のものすごい目的がなくなり脱力感が生じるとともに、下山したあとは、厳しい日常生活の現実に戻るという一種の絶望が襲うためではないか、とも言うのです。たしかに、登頂のため、仕事を辞めてきて、下山すれば、再び職探しなどの現実に直面する登山家がいることも事実です。
だから、彼自身はいつも登頂を成し遂げたとたんに、次はどの山を目指そうかを考えるそうです。そうすれば次に向かっての意識が高まるので、絶望感の中での下山はない。未来への希望が安全な下山を支えているのです。
どうです、彼の発言は、一つひとつわれわれの生き方の参考になりはしませんか。