つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

日英同盟の前に日英独同盟が構想された

われわれの勉強会「おつな寿司セミナー」の中で長老のお一人である山本悦夫さんの三軒茶屋のご自宅で、新年会が開かれました。このセミナーのメンバーは、何度も触れていますように、マスコミ関係者、マスコミOBが多いので、談論風発する楽しい会合です。
特に、この日はウズベキスタンの滞在歴の長い女性の国際問題研究者も参加していました。近く再びイランに旅立ち、2ヶ月ほど当地でペルシャ語を勉強するそうです。
この女性の研究テーマが、19世紀後半の東アジアにおけるイギリスとロシアの覇権抗争。それをさかなに話が弾んだのですが、小生が、「明治初期には欧米帝国主義に対抗するため、明治政府では真剣な論議がされたようだ。なんと、伊藤博文はロシアとの協調を主張し、伊藤より若い世代はイギリスとの同盟を主張した。最終的にイギリスとの同盟を決めた要因は、日清戦争後の三国干渉ではないか」と切り出すと、俄然この話に乗ってきたのが軍事専門家の鍛冶俊樹氏。
鍛冶氏は、日英同盟について、「イギリスが最初に同盟を考えたのはドイツで、日英独同盟になる予定だった。それが何かのいきさつでドイツ抜きになってしまった」というのです。実は、小生、日英同盟の前に日英独三国同盟が構想されたという点については不案内でした。くだんの女性研究者も知らないと言う。さすが元自衛官の軍事専門家、鍛冶氏、近代史にはめっぽう強い。
ロシアの東アジア進出をあれほど嫌ったイギリスが、どうしてロシアの誘いに乗り、フランスとともに三国干渉に加わったドイツを同盟国の一員にしようと考えたのか、あるいは、鍛冶氏のいう三国同盟構想は三国干渉の前の話だったのか。
いずれにしても、日英同盟は1923年には失効します。わずか20年ほどの同盟関係でしたが、国益的(帝国主義を是とする前提に立てば)には、この時代に日本はかなりポイントを稼いだようにも見受けられます。岡崎久彦氏が指摘するように、日本はやはりアングロサクソンとの同盟が必要なのでありましょう。
下の写真で、小生が手を置いているのが鍛冶氏、左端手前は読売新聞の主任研究員。鍛冶氏と小生の後ろにいるのは新潮社の編集者。真ん中に山本悦夫氏、その隣は結婚したばかりの山本氏のご令嬢。