つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

中国の自治区とは「植民地」のこと

 中国で、自治区というところがあります。一番有名なのはチベット、それから新疆ウイグル内モンゴル、広西チワン族寧夏回族自治区。これらの地はもともと漢民族とはかけ離れた異民族が住んでいたところです。つまり、力の強い漢民族が中原から押し出して周辺に勢力を伸ばし、切り取ったところで、いわば植民地なのです。
 昔は、第二次世界大戦以前は、力が強い国家が周辺に力を及ぼすのは当たり前の行動であり、この行動自体は良いとか悪いとか言えないところがあります。もともと国家間、民族間には、常識やモラルといったものが通じず、力が強いか弱いかによってのみ決まる冷厳な世界があったからです。冷たく言えば、植民地にされる民は他国に侵略される備えを怠っていた愚かな民ということでしょう。
 では、植民地、被植民地の状態が当たり前なのだから、植民地主義者は一切の責任、一切の感傷、一切の配慮も必要ないのかと言えば、小生は必ずしもそうは思っていません。植民地にされる民は、固有の言語、独自の文化を奪われたり、宗主国の民に一目置かなければならない屈辱を味わうわけですから、苦痛は耐えがたいものになりましょう。
 国家でなく個人としていささかの良心があれば、他民族に支配される民の立場を若干でも考えるべきであり、したがって、感傷的だと言われようと、小生は、田母神俊雄氏個人のように周辺国に力を及ぼす行為そのものを全面肯定する気にはならないのです。もちろん、日本だけでなく、19世紀以降、世界を植民地にした西欧列強も、アフリカから奴隷を連れてきて強制労働させた国々も同様にその原罪は負うべきでしょう。
 第二次大戦以後は、国連憲章で侵略を否定したため、列強の露骨な侵略行為はなくなりました。しかし、中国内で軍事力で国民党を追い出し、その力を持て余した共産政権は、19世紀の欧米列強よろしく周辺国を切り取り、事実上植民地化していきました。ま、モンゴル族などはチンギスハンが中原に押し出し、燕京(北京)中心に元朝という国家を作ったこともあり、民族間の取ったり、取られたりのパワーゲームが当時も続いていたと言えば、それまでですが、それにしても、大戦後の混乱の中で新中国は見事なまでに周辺国を切り取ってしまいました。
 植民地ではもともとの民族の言語、文化を奪い、現地の民を二等国民化することは当然のことで、今、チベット、新疆ウイグルでもそうなっています。新疆ウイグルでは核実験が行われ、チベットには核廃棄物が置かれ、多数の現地民を殺しました。地元で採れる石油・天然ガスレアメタルはすべて漢族が独占し、利権をむさぼっています。これも植民地であれば当たり前の流れです。
 ですが、一つ指摘しておかなければならないことは、中国は戦前の大陸における日本の行為を盛んに喧伝し、「侵略だ、侵略だ」と非難しながら、一方で、まさに戦前の日本と同じような行為を現に今「自治区」でしているおかしさ、その矛盾です。この辺のところを中国の指導部は知っていて、黙っているのか。心あるマスコミ人や知識人はその矛盾をどう咀嚼しているのか、知りたいところです。
 下の写真は、中国語を教えている千葉・市川の大学からの帰り道、「きょうはちょっと遠回りで帰ろう」と同僚の先生と松戸市矢切から葛飾・柴又経由で帰ったときのもの。松戸方向から対岸を見たら、柴又側からこちらに人を満載した小舟が向かってきていました。「連れて逃げてよ」「ついておいでよ」で有名な矢切の渡しです。