つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

マスメディアの記者には資格制度を

 昔、通信社の記者をしていたころ、「新聞記者というのは記事で他人を不幸にすることもできる怖い存在なのだから、心して書くべきだ。書かれる人の立場を考えて」などと言われたものでした。なるほど、自分は客観的に書いているつもりでも、実態はかなりの思い込み、自分の好き嫌いでの判断があったりするケースがないわけではありません。
 客観的というのは自分にとっての客観的であって、それは「主観的客観」でしかないのです。この言葉遊びのようなことを学生時代、全共闘運動に熱心だった友人から聞いたことがありますが、それはともかくとして、今でもなにがしかの書きものをしている小生は、この客観性表現と自分の意見の違いを鮮明に分けるよう、絶えず気を配っています。
 先日、朝日新聞を見ていたら、イタリアには「ジャーナリストの職業に関する法律」というものがあり、記者に能力試験を義務づけているというのです。恥ずかしながら、これまでまったく知りませんでした。確かに、「自分は記者」と名乗れば、だれでも自由にマスメディアに書けるとしたら、それは危ういものであり、記者にはやはり一定の知識、見識、良識が伴わなければならないと考えます。
 日本の大手のマスコミの場合、それぞれの会社が入社時に常識試験をして記者としての適格性を判断しているのですが、フリーのジャーナリストはそういう機会はないでしょう。とすれば、結構危ない人が書いている可能性もなきにしもあらずです。その点では、記者と名のつく人、少なくともマスを対象にしたメディアに書く人には共通のルールが必要で、イタリアの記者の資格制度ようなハードルは一定の評価はできると思います。
 昨今、ネットの情報が氾濫していますが、これらは全部独断と偏見に基づいて書かれています。まあ、客観的に書いたものなど確かに面白くもないですから。これらは、狭義のマスメディアではないので、どうでもいいと言えば、それまでですが、異端な意見を吐く人のブログがよく読まれるのは事実であり、そういう意味では、ネットは危険な情報や発信が「裏のマスメディア」になりつつあり、力を持つ恐ろしさもあります。ネット情報にはもっと神経を使って接しなければなりません。
 下の写真は、いつも大学に行く途中にある治療院の前にいる石造りの犬。今年もクリスマスシーズンを迎え、サンタクロースの服を着はじめました。