つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

コメンテーターは批判だけでいいのか

 元日の午後、田原総一朗氏が出ている討論番組を見ていたら、青木理なる左派系ジャーナリストが厳しく安倍首相を批判。そこで、同席者(確か作家の井沢元彦氏)が「では君は安倍が気に入らないのから、何党のだれなら支持できるのか。どういう政策なら歓迎するのか」と聞いたところ、青木なる男は返答に窮する。そこで、窮した挙げ句に「ジャーナリストは(批判するだけで)対案は要らない」と答えました。
 すると、東京新聞論説委員長谷川幸洋氏が「野党と同じ姿勢だ。反対ばかりしている限り、野党は永遠に政権は取れない」と述べて青木発言を揶揄していました。続いて、井沢氏も「ジャーナリストと言えども、望ましい形を示さないのは無責任だ」などという趣旨で発言しました。このやりとりを見て、マスメディアの世界にいた小生も、久しぶりに古いジャーナリズムの在り方論を聞いてしまったなという感覚に陥りました。
 小生が若いときに認識したジャーナリズムの在り方はこうです。ある法律、政策があって、たといその99%を支持できると思っても、1%に瑕疵を感じたら、その1%を批判するのがジャーナリズムなのだというもの。ジャーナリズムはあくまで権力の監視であるのだから、権力がフリーハンドにならないよう警鐘の鐘を鳴らし続けることに意味があるのだというものです。
 これはある意味正解だと思いますが、歳を取ってくると、徐々にそんなものでいいのかという思いが募ってきたのも事実です。ライターやコメンテーターが名前を出して一定の文章を書くとき、つまりジャーナリストからクリティック(評論家)に変わる時にはやはり荒探しだけに終わらず、「あるべき姿」論を提示しなければまずいんじゃないかと思うようになってきました。
 小生は自民党の機関紙に国際情勢に関するコラムを書き、その際の肩書は「アジア問題ジャーナリスト」としています。でも、安全保障や対中国、北朝鮮問題などでは明確にあるべき論を書いています。それは自民党の政策と一致するものがほとんどですが、中にはそうではなく、クレームを付けられたこともありました。ですから、自分ではすでにジャーナリストではなく、いささかクリティック的立場だと思っています。
 ジャーナリズムは所詮批判三昧の言い放し、結果責任が問われないいい加減な立場にあるので、それはそれでいいとして、やはり政治家はきちんとしたあるべき論を主張すべきです。集団的自衛権に踏み込んだ一昨年春施行の安全保障法制について、民進党では大々的に反対論をぶっていた人が希望の党に移ると瞬く間に変身してしまうような政治家はいかがわしいと思います。
 共産党はかつて宮本顕治委員長の時、「武装中立」を主張していました。これはこれで立派で、「非武装中立」を唱えるノー天気ユートピア主義者の社会党と違って優れた安全保障認識だと思っていました。でも、今では何ですか。北朝鮮や中国の脅威が増す中、軍備増強に反対し、武装中立などと言わない。これでは安全保障に何の関心もない大衆に迎合したポピュリズムと言われても仕方ないでしょう。

 上の写真は、三軒茶屋の茶沢通りにあるゴリラビル上のキングコング。友人宅で新年会があったので、この近くに出かけました。