つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

大学という時間と場はいつあってもいい

 今、大学は人生のモラトリアムの時間を与える場所でしかないと言う人が多くいます。小生の印象でも、この皮肉な言葉は当たっている気がします。つまり、子どもたちは高校で将来が決められず、大学で何を学びたいかなどという目的もないまま、社会に飛び出す助走期間として、時間つなぎとして大学に来ている感じなのです。
 あるいは、大学でも将来の設計が決まらず、さらに大学院などに進むケースもあるようです。就職環境が悪いということもあるのでしょうが、子どものモラトリアム期間が確実に延びているのは事実。それだけ、”超高学歴”になる子どもの面倒を見る親もたいへんで、同情せずにはいられません。
 将来の設計が決まらないのは、自分と社会との関連性、もっと正確に言えば一生をささげるべき職業のイメージ、自分の人生設計や生きがいとのつながりがつかめないことが大きな原因でしょう。ですから、本当は大学に入る前に一度、社会に出て給与を得て自活してみて、社会のイメージをつかんでから再び学窓に戻ったらいいのではないかと思うのです。
 そういうシステムは小生がひそかに前から考えていたことですが、新年早々の朝日新聞を読んでいたら、我が意を得たりと叫びたくなる特集記事を見つけました。スウェーデンでは、高卒後すぐに大学に入るのは10人に1人の割合で、ほとんどは実社会を経験してから大学に入るそうです。北欧にはすばらしいシステムが当然のようにあるのですね。
 その記事に登場するある男性は「高卒時は自分が何になりたいか分からなかった。2年間、旅していろいろな人に出会って人生目標が見つかった」と告白、その経験を踏まえて大学に来たそうです。小生の経験でも、かつて国際関係論の授業でこちらの顔をずっと追いながら熱心聞いている学生がいたので、聞いてみると、やはり2年間、会社員をしていたことがあると明かしました。知識への貪欲さが並の学生と違うのです。実社会において新たにさまざまな疑問がわいてきて、改めて体系的に勉学してみたいとの意欲が増したためでしょうか。
 朝日の記事は、人生は高校→大学→就職という「単線」でなく、大学を中継点に「複線」があってもいいと書いていますが、大学という時間と場は、一人の人生の中でさまざまな局面で登場していいはずです。もちろん、老後であっても可能でしょう。
 下の写真は、那覇市国際通りで見かけた風景。犬の服を売っている店の宣伝用のものでしょうか。