つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

オフレコ破りの影響は他社にも及ぶ

 「犯す」とか「犯さない」とか言った田中前沖縄防衛局長の発言が問題になり、更迭されました。あの発言自体を捉えると、記者懇で別にエロ話をしていたわけでなく環境アセスメント評価書をいつ出すかという話のところであり、たとえ話としてあんな言葉を言う必然性がない場面ですから、本当に驚いてしまいます。田中局長は従来から過激な発言を好む人なのか、それとも皮肉な言い方をすれば、潜在的にそういう願望を持っていたのかどうか。
 でも、元新聞記者の小生から見ると、この問題は別のところにあると言わざるを得ません。というのは、この記者懇がオフレコを前提にしていたということです。きょうの日経新聞のコラム「春秋」でも書いていましたが、多くの記者にとっては、果たしてオフレコ前提の内容を書いてしまっていいのかという単純な疑問であり、「自分ならたぶん書かない、その結果どうなるか」という思いに捉われたに違いありません。
 ちなみに、元振興大臣がカメラが回っている場で一方的に勝手に「これはオフレコだ」と暴言を吐いたケースとはちょっと違います。オフレコ記者懇は事前に被取材者と記者が書かないことを約束し始まるもので、懇談でいかに重大な内容が話されたとしてもそれは書けないのです。小生もかつてオフレコで重要人事を聞いたことがありましたが、書きませんでした。それが記者と被取材者との信頼関係なのです。
 今回の琉球新報のオフレコ破りは、口には出さないでしょうが、他社の記者は苦々しく思ったに違いありません。今後は、政治家や官僚とオフレコという懇談ができなくなり、オフレコを前提にしても本音を決して聞き出せないだろうと容易に推測できるからです。本音が聞けないのならいわゆる公開の記者会見と同じですから、わざわざ酒を飲みながら話をする必要はなくなります。
 一般に読者は新聞の記事に対し、事実の背景や本質を書くよう求めますが、そういう記事は会見情報だけでは書けません。味のある原稿を書く補完としてオフレコ懇談があるのです。記者は、懇談の中身をストレートに使うのではなく、あくまで解説記事などの方向性を誤らないための補完という意味で使うのです。そういう意味で、オフレコ懇談は欠かせません。
 記者のルールを破った琉球新報の記者は今後、どんなケースでもいわゆるオフレコ懇談の場に入れてもらえないでしょうし、同社全体として今後、重要情報を入手できなくなる可能性もあります。裏情報が入手できにくくなることで、琉球新報は今後、公式情報だけの「官報」となり、限りなく部数を落としていくでしょう。残念なことに、この影響は独り琉球新報に限らず、他社にも及ぶことです。オフレコ破りはそれだけ大きな問題をはらんでいます。いっときの”正義感”がマスコミ全体に重大な損傷を与えたということなのです。
下の写真は、いつも整体院の玄関を見守るけなげな石造の犬。毎回通るたびになでてあげると、喜びます。