つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「平和、平和」だけの発言でいいのか

 太平洋戦争で、沖縄戦終結した6月23日も、8月の広島、長崎の原爆の日でも、テレビ局がインタビューした人に必ず言わせる言葉があります。「あのような悲惨な戦争を二度と起こしてほしくない」「平和を守っていかなければならないと感じた」など。大変、立派な言葉であり、小生を含めて視聴者は批判の余地はありませんが、国際政治環境を冷静に見れば、こんな言葉だけでいいのかという思いにもかられます。
 日本が昭和に引き起こした一連の戦争は、多分に侵略戦争の意味合いが濃厚なので、小生も支持するわけにはいきません。中国などへの進出が結局、のちに米英などとの第二次大戦を引き起こしたとなれば、大戦争の原因を作ったのは日本なのだから、いささかの反省があってしかるべきです。その意味では、平和を乱すようなかつての日本軍の在り方には反対し、「平和を守る」という思いを持つのは自然なのかも知れません。
 でも、戦いはこちら側の侵略戦争ばかりではありません。侵略される場合もあり、この時もわれわれは武器を持って反抗しえないのでしょうか。ある左翼の大学教授にその点を聞いたところ、「私は、たとえ侵略されても武器を持ちたくない」というのです。小生が「それでは奴隷になってしまいますよ」と言うと、「それでもかまわない」というのです。
 そこまで信念を持っていれば、何をかいわんやですが、一般的に、他国に侵略されれば、行動の自由ばかりでなく、言語や文化を奪われることとなり、それはだれでもいやなこと、許されないことです。テレビ局のインタビューはそこまで考えて「あくまで平和がいい」とインタビュー相手に主張させているのか。大学で国際政治を論じている者からすれば、ちょっと不安に思います。
 いついかなる時でも平和はいいに決まっています。ですが、話をそこで止めていいのか。こちらが望まなくとも、平和を侵しに来る者がいることにも言及し、侵略者に対し、われわれはどう立ち向かうかという点にまで触れる必要があるのではないでしょうか。
 というのは、現実にわれわれの周辺環境が必ずしも、平和を希求するわが国民の望むべき状況にないからです。平たく言うと、我が国の領土を奪おうとする隣国がいるのであって、危機が現実のものとなっているのです。平和、平和と言って現実を見向きもせず、「(反抗の)血を流すことを嫌がると、その国民は必ず征服される」と、「戦争論」の中でクラウゼビッツが言っています。平和を守るための戦いという視点も必要なのではないでしょうか。
 下の写真は、先般横浜球場で行われた横浜-巨人戦。小生はいつもの自由席でなく、バックネット後方の指定席で見てしまいました。