つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

あれから3年、「もう」なのか「まだ」なのか

 今年も3月11日が来て、あの大地震から丸3年の歳月が流れました。これも早いようで、遅いようで。もう3年もたったのかという感じもするし、まだ3年かという感覚もあります。でも、あの日は東日本に住む人間にとっては忘れられない一日だったでしょう。激しい揺れ、そして津波原発の事故、さらには東京近辺のサラリーマンには帰宅難民という辛さもありました。
 あの地震が起きたとき、小生は当時神田小川町にあった社団法人の事務所にいました。古いビルの5階です。60年間生きていて、これまで経験したことがない激しい揺れがあった時、まず思ったのは「ああ、とうとう関東大地震が来たか」ということ。外を見ると、他のビルから人がバラバラと外に飛び出してきました。ですが、小生は不思議にビルの外に逃げようとは思いませんでした。
 ビルの外に逃げ出した人が多かったのは、あの地震の10日くらい前にニュージーランド地震があり、小さなビルが崩落、日本人学生多数が犠牲になった記憶が焼き付いていたからかも知れません。でも、小生は事務所があるこの古いビルでも崩落するとは思いませんでした。日本のビルは古くても耐震建築なので、あのニュージーランドのような事態にはならないと確信していたのです。結果的を言えば、東京周辺で天井から物が落ちてきて死傷した人がいましたが、建物全体の崩落というのはなかったですね。
 しばらく激しい揺れが続いたあと下火となり、ちょっと落ち着きを取り戻したとき感じたのは、「これは横揺れだ。恐らく関東が震源なら、もっと縦に揺れるはずだ。これは関東大地震ではない」ということ。これも、ニュースを聞いて震源は東北沖であることから当たり。その後に津波があることも承知していましたが、あれだけの大津波になるとは想像できませんでした。
 地震のあと、これはきょう電車は動かないだろう。早めにメシの用意だけはしておこうと思って近くのコンビニに走り、食糧を調達しました。確か3時ごろで、このときはまだコンビニの棚には豊富に物が並んでいました。5時過ぎに同じコンビニに行ったら、棚はもう空っぽになっていました。早めの買いだめは我ながらいい判断でした。
 電車が動かないことが分かったので、小生はこの日夜、事務所に泊まる予定でした。ソファーベッドもあるし、上掛けの布団もあるので申し分なし。でも、女性も含めて仲間3人(事務所を共有していた中国系企業の社員)がいたので、当時、従業員の宿舎用に借りていた上野池之端のマンションにみんなで行くことにしました。
 まともに歩けば30分ほどで着いてしまう距離ですが、この日は不忍通りが人であふれ返り、歩道は大渋滞。結局、一時間ほどかかってしまいました。ですが、マンションは電気も水道も切れていないので、風呂に入ってゆっくり休めました。布団の配給は少なめでしたが、その分エアコンでカバー。
 いろいろな人に話を聞くと、その日は金曜日で、翌日が土曜日の休みということもあって夜を徹して自宅まで徒歩で帰った人が多かったです。各方面に歩いて行った人それぞれにドラマがあったようですが、横浜駅近くまで帰った人の話では、この日夜、国道1号線は人で埋まっていたといいます。自分のペースで歩きたくても歩けない難行の旅だったようです。ですが、多摩川六郷橋を渡ると不思議と人並みが減ったというのです。何の理由でしょうか。
 小生は地震の日、東京から横浜の自宅までというコースを歩かなかったので、昨年12月、仲間に誘われて改めて東京(品川)から桜木町・赤レンガ倉庫まで歩いてみました。やはり想像以上に長い道のりというのが実感でした。次に大地震があって東京にいたら、今度こそ泊まるところがないので、横浜まで歩かなければならないでしょう。大地震の時にどこにいるか、どこで遭遇するかというのは重要なことですね。
 下の写真は、京都・伏見稲荷大社内にある千本鳥居。