つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

こんなことでも裁判を起こすんだ

 愛媛県今治市の小学校で2004年、放課後校庭内でサッカーの練習をしていて子供が間違って外に蹴ってしまったボールにより老人のバイク転倒事故が起き、親の「監督責任」が問われた裁判がありました。この裁判の一、二審は、子供の親が監督責任を怠ったとして損害賠償を命じましたが、このほど開かれた最高裁判決は、逆転で一、二審判決を破棄、 請求を棄却しました。この事故とこれまでの裁判の経緯について、小生は知りませんでしたが、この最高裁判断は至極妥当だと思います。
 今回、この裁判の詳細を聞いたとき、第一感は、「へーこんなことで裁判を起こすヤツがいるんだ」というものでした。少年は校庭内でサッカーの練習をしていたのであって、故意にボールを校庭外に蹴り出したわけではないし、過失というほどの過失ではない。ごくごく日常的な行動の一つだと思います。そんなことに、親の監督責任を問えるというのが不思議なくらいです。
 また、85歳の老人は蹴り出されたボールによってバイクともども転倒したのですが、直接これによって死亡したわけではない。なんと1年半後に死んだという。事故と死亡の因果関係もあいまいです。それなのに、原告はボールを蹴った少年の親の監督責任を問うて裁判を起こしたと言うのですから、小生からすると、ちょっとあきれてしまいます。恐らく、原告は「こういうケースは勝てるから」などと、悪知恵の働く弁護士にそそのかされて提訴したのではないでしょうか。
 悪知恵の弁護士(?)が判断した通り、一、二審判決で見られるように、これまでの常識では、こんなことでも親の監督責任が問われてしまっていたのです。でも、こんな判決をされては親はたまったものじゃないですね。子供に事前に注意してもし切れません。それとも、親は子供に「サッカーの練習では、校庭外に出さないよう軽く蹴れよ」などと注意しなければならなかったのでしょうか。考えられません。
 故意性がない、重大な過失が見られない、こんなケースであっても、純真な子供は裁判にされれば苦しみます。自分が蹴ったボールが他人の死に関係していると思って心を痛めているところに、さらに裁判は、傷口に塩をなすりつけるようなものです。小生に言わせれば、裁判自体感心しませんし、こんなことで裁判を起こした原告側の非情さを恨みます。
 ですから、最高裁の判断はごくごく当たり前、常識的な判決だったと思います。子供は多感期に、10年以上の裁判で自らの”責任”を問われ続けていたのですから、普通の少年時代が送れなかったと推測されます。その意味では今回、請求棄却の最高裁判決が下りた以上、純真な子供を苦しめた原告側にむしろ損害賠償させたいくらいだと感じました。

 上の写真は、上野公園の桜。ソメイヨシノとは別の種類のピンク系。