つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

藤沢作品「海鳴り」に魅せられる

 藤沢周平を読み進め、今では全作品の5分の4は読了したと思います。最近、印象に残ったのは「海鳴り」という作品。これは日経新聞が8月22日の夕刊「文学周遊」で取り上げていました。ある商家の旦那と人妻との不倫の話です。下世話な視点で見れば、なーんだという感じですが、その人間の描き方、特に年取ることへの諦観、いやそれでも抵抗する姿勢など藤沢独特のきらめく心理描写があり、珠玉の作品だと思います。小生の推薦する藤沢作品の一つになりました。
 江戸時代と現在とでは、年齢自覚が20歳以上違うといいます。当時40歳代に入った人は現在の60歳代後半くらいになった気持ちで、すでに老境を感じていたでしょう。海鳴りの主人公「小野屋新兵衛」も46歳ほどですが、人生の終焉を意識します。でも、満ち足りない家庭生活やビジネス環境の厳しさがあって人生の虚しさを覚え、その反動で同じ商家の人妻「おこう」との関係を深めていきます。
 この作品の中でも特に、2人が逢瀬を重ねる船宿で花火を見る場面の描写が好きです。
−−「あたくし、どこまでもご一緒します」。「この齢で駆け落ちですが」。新兵衛は苦笑した。だが、それも悪くないなという気もした。地の果てまでもと思い、江戸をのがれて行く二人の姿を思い描いてみたが、そのうしろ姿はそんなに不幸には見えなかった。また夜空が明るくなり、巨大な火の花が闇をいろどるところだった。−−
 人間だれでも自分が終末に近づいているなどと思いたくない。けど、健康の問題、体力の問題などでそれを意識せざるを得ない時がありましょう。その時、生きる証として人間は何を求めるのか。やはり蠱惑的な未来を求めるのではないでしょうか。藤沢はそういう点を追究しました。不倫小説というより、むしろ老境をどう理解し、どう乗り越えたらいいのかという小説だと思います。
 藤沢作品では、「三屋清左衛門残日録」という、武家の視点で老境を描いたものもあります。こうした作品に興味を引かれるのは、小生自身、老境を感じているからにほかなりません。特に大病をしたことで、彼岸をすごく意識したことも関係しています。まだまだやり残したことは多いのですが、残された時間に限りを感じ、はやる気持ちがあることも事実です。

 上の写真は、那須高原の帰り、栃木県佐野市の「プレミアム・アウトレット」センターに寄った時の一枚。