つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

日本のバレンタインデーは「人情節」か

 もう日が経ってしまいましたが、14日はバレンタインデーでした。老境に達している小生などは特に縁なく、チョコレートを贈られることもありません。でも小生は、毎日明治製菓の板チョコ「ブラック」を1枚食べるほどのチョコレート大好き人間。ですから、本当は貰えばうれしいのですが、内人からもありません。この日も、買い置きしてある板チョコを自分で冷蔵庫から出して、小遣い稼ぎの原稿を書きながら、寂しくほうばっていました。

 それはともかく、国内の華文フリー新聞を読んでいて面白い記事を見つけました。「日本で情人節(バレンタインデー)は人情節になった」という見出しが付けられていた記事。中国語で情人は恋人という意味ですから、本来恋人同士が愛を確かめ合う日なのですが、日本では、他人への情けを考える日。仕事をしている女性が職場で人間関係を円滑化するため、およそ特別な感情などない人にまでチョコレートを”配る”、義理チョコが常態化していると、同記事は揶揄するのです。

 「情人節」と「人情節」では、漢字を入れ替えただけなのですが、なるほど言い得て妙、言われてみて、なるほどとうなってしまいました。記事で紹介された調査によれば、職場女性の半分以上は「バレンタインチョコは”愛情”部分が少なく、”人への情け”の部分が多い」と見ており、74%は「こんな慣習は止めた方がいいとの意識を持っている」そうです。

 義理チョコ配りに対し、案外当の女性の多くに不満や抵抗感があるのには、ちょっと驚きました。なぜ、抵抗感があるのか。同記事の分析では、バレンタインデーを煽っているのは実はチョコ業界をはじめとしたビジネス側。テレビなどが盛んに吹聴することで皆がその日を認識し、女性は義理チョコを準備しなければならないし、男性側も何らかの期待をする。つまり商業主義に踊らされていると言うのです。

 確かにそうかも知れません。でも、みじめったらしい中年サラリーマンであっても、他人から何らかの意思表示をされれば嬉しいし、たとえ義理であっても、ちっぽけなチョコ(昔職場で保険会社のおばさんが配っていたような)であっても、プレゼントされて不快感を抱くことはないでしょう。また、それで職場のぎすぎすした状態が和らぐのであれば、それなりの効果は果たしているように思います。

 女性側からすると、義理であっても配る範囲をどこまでにするかとか、一個当たりのプレゼントをいくらにするかとか、人によって差をつけるのか―などなど難しい問題もあるようで、その辺はお察しします。ただ、義理であっても貰った男性はホワイトデーなる日に確実にお返しのプレゼントをするでしょうから、打算的な損得勘定からすれば、損はないと思います。

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 上の写真は、11月初めの奄美大島で咲いていたブーゲンビリア。小生の好きな南国の花。