つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

三宅宏実選手のしぐさに感動

 ロシア極東旅行から帰ってから、あまり都心に行く用事もないので、散歩に出るか、家で小銭稼ぎの原稿書きをするか、オリンピック放送を見ているかで過ごしています。オリンピックはスポーツ選手が4年間の成果を競い合うもので、悲喜こもごもあり、いつも感動的です。特に、この中でも印象的だったのは女子重量挙げの三宅宏実選手のしぐさでした。
 彼女はジャークで107キロを挙げ、どうにか銅メダルを獲得したのですが、最後の差し上げ成功のあと、いったん袖に帰りかけたものの再び壇上に戻り、バーベルにほほずりをしました。小生はこういうシーンに弱く、素直に感動しました。いかにも仕事道具を大事にする職人のように、スポーツ選手もその器具、道具に一定の敬意を表する態度は実に立派だと感じます。
 物を大事にすることは、物のない時代に育ったわれわれ共通の習慣でしょう。小生も子供のころ両親に「物を大切に」と言われて育てられましたが、同世代の内人と一緒になったあとも、彼女からも新鮮なアドバイスをもらいました。それは、「長い間使い続けた衣服や道具を捨てるときには、『これまでお世話になりました。ありがとう』と言って捨てるものです」。
 以後、小生は長い間使い続けてよれよれになったり、壊れたりして処分する衣服や道具に対し、感謝の別れをしています。きょう、香港駐在時代から着ていたブルーの半袖ポロシャツを一枚捨てました。このシャツに特別思い出があるわけではないのですが、シャツを抱きしめ、「長い間、僕を守ってくれてありがとう」とキスをして袋に収めました。
 敬意は物に対してだけでなく、国家に対しては余計にそうあるべきです。その点、オリンピックで日本の若いアスリートたちは、愚かなサヨクが見せるような日の丸・君が代忌避の姿勢もなく、むしろ表彰台では立派に国旗・国歌への敬意を示していました。いい傾向です。政治をスポーツの世界に持ち込んだり、自国を誇れないような人間は真のアスリート、スポーツ国際人だとは言えません。
 その点、柔道の試合で、イスラエルの選手に見事な背負い投げ一本で負けたエジプトの選手が試合終了後、あいさつもせず、イスラエル選手の握手の申し出にさえ拒否する姿勢を示しました。ライブで小生もこの光景を見ていましたが、エジプト男は見事に負けた人間だっただけに実に情けなく、みずぼらしく、愚かと映りました。
 試合が終わったらノーサイドであり、激しい闘いがあればあるほど、肩を抱き合い互いの健闘を称え合うことが必要です。それは、スポーツマンシップというより、むしろ人間としての最低限の礼儀作法に入る話だと思います。

 上の写真は、ウラジオストック駅前にあるレーニン像。周辺は、日本人は見かけず、中国人観光客だらけでした。