つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

セクハラは女性にも責任がある

 先日、テレビのワイドショーで紹介していましたが、米国芸能界でオスカーと並ぶ有名なゴールデングローブ賞の授賞式がありました。その時に、出席した女性たちが皆黒いドレスを着込んでいました。これはいわゆる芸能界で”伝統的”に存在するセクシャルハラスメントに対する抗議の意味があったようです。この光景を見て、小生は逆に考えてしまいました。なぜそんなことがずっと表面化しなかったのか。それは女性側にも問題があったからではないのかと。
 小生がセクハラという言葉を初めて聞いたのは1980年代末ごろ。部内に回る書面のお触れを見たときです。正直、最初の印象は「セクハラってなんだ」というものでした。というのは、わがセクションには女性が一人もいない。泊まり勤務は言うに及ばず、朝駆け、夜回りの仕事もある職場で、女性向きでない。それで女性と職場上の上下関係になったことがないので、セクハラをしようにもまったく縁がありませんでした。
 その後、男女雇用機会均等法の効果で、90年代に部内にちらほら女性が入り始めました。でも小生に限っては単独でする部署が多かったので、取材相手には大勢女性はいたものの、取材する側の同じチームとして一緒の機会はない。小生が取材を指示し、他人の原稿をチェックするデスクなる地位に就いて初めて女性に関わるようになりました。その時の印象は、正直言うと、女性の同僚っていろいろな面で面倒だなと思いました。
 男性同士の上下関係なら、仕事上のアドバイスを兼ねてたまに「飲みに行こう」と言えるけど、女性に対してはそう簡単にはいかない。変に勘繰られてしまう恐れもないわけではないので、2人だけは避けていたし、2人だけの飲み会になった時もわいわいがやがやの居酒屋を選びました。その後、彼女らが地方に転勤し、小生が出張やプライベート旅行でその地を訪れたとき、気安く飲みに付き合ってくれました。これは、同僚として嫌がられてなかったのかなと今でも思っています。
 それはともかく、セクハラの定義って難しいですね。ある女性に聞いたことがありますが、好感を持っている男性に肩をたたかれたり、組まれたりするのはむしろ歓迎だけど、生理的嫌悪感を持つ男性なら、いやらしい目で凝視されたり、そばに寄ってくるだけでもセクハラ行為と認定したくなるという。まあ、女性の恣意的な判断に任されるわけで、電車内の痴漢の認定と同様。男性はいつも辛い立場に立たされるようです。
 ハリウッドのセクハラ問題ですが、こんなことが長年続いてきたということは、女性側にも問題があると小生は思います。つまり、性的魅力、つまりセックス・アピールで力ある担当者に接近し、虜にし、自らを押し上げてもらおうと狙っている女性も少なからずいたということです。女ということを売りにするのはハリウッドに限らず、一般社会にもあること。一緒の仕事をするときに、男女を同列で扱うのが難しいのはそんなところにあると思います。
 でもそれでも、仕事の場をぎくしゃくさせないようにするには、同僚が男性であろうと女性であろうと、やはり思いやり、気配りなのかな。相手が不愉快だなと感じていることを察し、それはなるべく避けなければならないということでしょう。言うのは簡単だけど、小生自身、結構できていなかったと今でも反省しています。

 上の写真は、石垣島近くの竹富島で見たパパイヤの木。