つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

愛犬マオが母の日に天国に旅立つ

 我が家で約17年間共に暮らしてきた愛犬のマオが昨日12日の母の日、正午前、天国に旅立ちました。一晩、家で最後のお別れをし、きょう午前、横浜市中区根岸公園近くのメモリアルホールで荼毘に付しました。たかがわんこと言え、されどわんこ。子供のいないわわれ夫婦にとってはかけがえのない存在でした。もうマオは骨壺に収まってタンスの上にいるだけ。きょう、家の中はなにか寂しく、家族が”一人”いなくなった喪失感がひしひしと感じられてくるのです。

 マオは、内人がペットショップから買ってきたものです。小生が旅行して留守の間、ペットショップで「売れ残り、セール」の札がかかった子犬を見かけたのです。もしこの犬を引き取らなくては恐らく保健所に行って殺処分されてしまうのではないかと思い、数十万の金を払い、家に連れてきました。小生は旅行から帰った時に子犬がいてびっくり。内人は「もし、あなたがダメと言うならショップに返しに行く」と言うのです。

 前に住んでいたマンションは犬を飼うのはご法度でした。ですから、もし飼うとなれば、マンション住人に知られず、ひそかに飼わなくてはなりません。そういう事情があったから、内人も小生に同意を求めたのでした。内人が連れてきた子犬はチワワ、うまれて1カ月ほどで、本当に片方の手の平の上に乗っても十分なほどの小さい生き物でした。

 マンションの規則は承知していましたが、売れ残りで殺処分というような事情を聴いて、戻してこいとは言えません。いや、黒ブチの子犬は事実かわいかったし、小生も犬が嫌いではない。「君が望むなら反対しないよ」といやいやの感じを装いながらも、事実、飼うことは嬉しかったのです。名前は、毛がふさふさしていたので、「毛」と名付けました。でもケー君ではありません。発音は中国語からマオです。毛沢東(マオツートン)主席のマオです。

 正確に言えば、誕生日は6月13日ですから、亡くなったのは17歳になる1カ月前です。老齢故にだいぶ前から目が見えないし、声も聞こえない。その上、心臓と腎臓がおかしくなっていたのです。2日前から家の中でぜいぜいと息をし、苦しそうでしたから、病院に連れて行き、そのまま入院。集中治療室のようなところに入っていました。日曜日の午前10時過ぎ、内人が見舞いに行ったときはまだ反応したようですが、正午前、病院から死去の連絡がありました。

 獣医さんも昨年当たりから、「クリスマス、新年が迎えられるかな」とか「桜が見られるか?」とか、その都度、余命がほぼ尽きたことをほのめかしていました。17歳になろうという犬ですから、間もなくだろうと2人とも覚悟はしていました。でも、マオは驚異的に生き続け、ついにこのブログでも書いたように、桜どころか令和の時代にまで突入してきたのです。ただ、17歳の誕生日には達しませんでした。

 約17年間、一緒にいた生き物がいなくなるというのは相当な喪失感です。ここ2、3年に、小生は実の母親、義理の兄、実の姉を失いましたが、皆、ずっと一緒にいたわけではないですから、正直なところ、喪失感はそれほど感じなかったのです。でも、いつも一緒にいる存在が消えるのは、実に寂しい。悲しみというのは実は、寂しいということではないかと、今、しみじみ思ったりしています。でも、この喪失感は内人とともに乗り越えなくてはならないでしょうね。

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上の写真は、愛犬マオのデスマスク