つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

可愛がっていた豚を食べる切なさに同情

 前々回に、BSで土曜、日曜日に放映している番組「小さな村の物語―イタリア」が気に入っていると書きましたが、そのシリーズの中で最近、特に印象に残った放送がありました。ある中部イタリアの農村に住む30歳くらいの農民青年は家で豚を2頭飼っているのです。彼は優しい性格で、毎日エサやりに豚小屋に行っては豚の頭を撫でていました。あたかもペットのごとき扱いなので、もちろん、豚の方もなついてきてクンクン言いながら、彼に擦り寄ってきました。豚にも感情があるのです。

 ところが、毎年1回、祭りの日に、この村では飼っている豚を絞めて、家族、親戚に振る舞う習慣があるのです。この青年は悩みながらも、仲良くしていた豚を絞めて、食卓に供するのです。長い間の習慣とはいえ、彼が豚を殺める時の気持ちを察してあまりあります。もちろん、殺めるシーンは出てきませんが、可愛がっていた豚は「おいしそうな食材」となって、大勢の人たちの前に出されたところは映し出されました。彼はこのイベントのあと、こう言うのです。「もう、飼育している豚を可愛がるのは止める。切ないから」と。

 可愛がっているものを殺めることは確かに切ない。韓国人は犬肉を食べる習慣があるというが、自宅で飼っている犬は食えないでしょう。だが、日本のどこかの小学校で、校舎の一隅でニワトリを飼っていて、子供たち全員が交代でエサを持ってきて育てていたのですが、卒業式近くなった給食の時に、そのニワトリは絞められて「食材」となって皆の前に供されるのです。その事実を知って、子供たちは驚き、嘆き、悲しみます。可愛がっていたものが食材になるその激変に子供たちはついて行けなかったのでしょう。だが、それが現実なんですね。

 われわれは当たり前のように毎日、豚肉だ、牛肉だ、焼き鳥だと食べているけど、それらが食材になる前は立派な生ある動物だったという点を意図的に無視しています。植物にしろ、動物にしろ、われわれは、生あるものを摘んで、殺めて食べており、それで自らの生を全うしているのです。ライオンが他の動物を襲う、基本的にアフリカのサバンナで繰り返される弱肉強食の風景と変わりないんですね。小学校のニワトリを食べさせた小学校の教師たちは、そうした「生の輪廻」を教えたかったのでしょう。

 父母の中には、この教育に反対の人もいたようですが、小生はむしろ教えるべきだと思います。カナディアンのエスキモー(イヌイット)は、北洋氷上の動物を殺して食用にしたり、衣服を作ったりしますが、決して必要以上の殺生はしない。それが自然の中で生きるルールとなっているのです。他の動植物を摘んで、殺めることでしか人間の生命は全うできないんだという点を自覚していれば、人間は自然に対し敬意を表し、他の生き物にももっと優しくなれるような気がします。

 上の写真は、3年ほど前に訪れたトルコのカッパドキア。早く海外旅行が自由にできる日が来ないかな。