つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

永倉新八本書いたきっかけは友人の下宿

 毎月の中ごろは雑誌、WEBサイト等のアルバイト原稿の締め切りが多く、ブログを書く暇がありません。今回のブログもちょっと遅れ気味になってしまいました。またまた、ウクライナ情勢を書くのも、ロシアへの怒りが募るだけで業腹、うんざり感があるので止めにします。ということで、自書の宣伝に努めます。6月10日に上梓した「永倉新八恋慕剣-新選組最強剣士」についてです。処女作は赤穂浪士を取り上げましたが、今回は若い世代に人気の高い新選組です。小生もどちらかと言うと、新選組の方が親しみを感じます。

 なぜ、永倉新八を取り上げたのか。実は、小生の母校、東京外国語大学は東京都北区西ヶ原にありました。50年前の話で恐縮です。今、外大は府中市に移転していますが、、。当時、1学年の学生が500人程度ですから、高校並みの規模。校門の前に大きな女子高があり、知らない人はこちらに入ってしまうという状況でした。それはともかく、国立大学で授業料も安かったので地方出身者が多く、その多くは学校の周囲のアパートに住み、下宿をしていました。

 クラスメートの一人が北区滝野川の廃業した寿司屋の2階に住んでいたので、よく遊びに行きました。小生の家は千葉の船橋市、駅で言えば津田沼総武線と山手線を使って通うと結構遠いので、友人のアパート、下宿に泊まってしまうこともありました。寿司屋の2階の友人下宿先もその一つでしたが、ちょっと薄暗く、トイレの水も満足に流れないので往生しました。それはともかく、この滝野川界隈で印象に残っていることが2つあります。1つは、商店街の一角の中華料理屋がすごくうまかったこと。特に、チャーハンと普通の東京ラーメンの味が絶品でした。

 もう一つが新選組近藤勇が斬首されたところに石碑が立っていたこと。石碑の隣が居酒屋で、よく飲みにいきました。石碑には近藤勇土方歳三の墓と書かれており、後ろに「永倉新八こと杉村義衛がこれを建てる」と刻まれていました。小生が永倉新八という名を知った最初でした。大方が承知しているように、土方は函館の戦争で銃に撃たれて死亡しており、ここに埋葬された墓があるわけはありません。永倉が近藤の墓を建てるのに合わせて名を刻んだようです。

 先日、永倉新八の本を出すので、久しぶりに滝野川を訪ねました。実はここは北区と言いながらも、JR板橋駅の真ん前で、石碑は残っていました、残っていたどころか、墓所内には近藤勇の石像や案内板などもでき、以前に比べて大々的に整備され、新鮮な花も飾られており、驚きました。新選組人気を裏付けています。さすがに隣にあった平屋の居酒屋はなく、高いビルが建っていましたが、、。

 滝野川商店街で日本人がやっていた中華料理屋もなくなっていました。50年経てば当然か。その跡地付近にやはり中華料理屋があったので、入ってみました。店員の言葉を聞くと、どうも中国人らしい。そこで中国語を使って話し出したところ、昔日本人がやっていた店など知らないというのです。確かに、20、30歳台のコックや店員に聞いても50年前のことなど分かるわけないですが。ラーメンの味も昔の店とは全然違っていました。でも、食べるほどに懐かしさがこみ上げてきて涙が出てきました。

 というのは、その寿司屋の2階に住んでいた友人は、卒業後銀行員になり、50歳台半ばで病死しているのです。ラーメンを食いながら彼を思い出してしまったのです。飄々として面白い男でした。小生が香港在勤していた時にバンコクにいた彼のところに遊びに行ったこともありました。彼が死んだという情報を自宅の内人から携帯で受けた時は、小生、ちょうど非常勤講師をしていた大正大学に向かう途中でした。この大正大学も西巣鴨で、滝野川商店街の近くにあります。ですから、永倉新八の本を書いたのも、やはりこの友人の因縁なのかななどと思ったりしています。

 文章が長くなりました。小説の内容と宣伝はまた後日触れます。

 上の写真は、JR板橋駅前にある近藤勇土方歳三の墓。墓所内は整備されていました。