つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

与野党、国葬という「形式」で対立してどうする

 ジャーナリズムの世界では、ある人物に99%の良さがあっても、1%の瑕疵があると、それを取り上げ、徹底的に批判するところがあります。本来、ジャーナリズムというのはそういう特質があることを頭に入れておかなければならないのですが、ある人物の一部の瑕疵が新聞、テレビなどで年がら年中取り上げられると、多くの人が「ああ、あの男は大したことなかったのだ」「とんでもない奴だったのだ」と思い込まされ、全面否定されてしまうこともあります。でも、よくよく考えれば、これはアンフェアは扱いです。

 安倍晋三氏などはその典型ですね。モリカケ桜を見る会問題での多少我田引水的行動があったにしても、その批判が誇張されたのは異常。西側世界の結束を進める上で彼が果たした役割、国際貢献をほとんどの人が敢えて見ようとしないし、評価していないのはなぜなのか。小生はもともと二世議員が嫌いだし、安倍氏を積極的に評価する者ではないのですが、今の国葬問題に絡むジャーナリズムの安倍氏への扱いを見ると、ちょっと残念でなりません。

 安倍氏はそんなに悪い、あくどい、無能力の政治家だったのか。国葬で弔うなどとてもできない人なのか。曲がりなりにも都合8年数カ月、首相を務めた政治家です。とんでもない政治家ならこんなにも長期にわたり選挙で洗礼を受ける民主主義国のトップにいられるはずがありません。安倍氏に対する世間の敬意、マスメディアの客観的評価がなさ過ぎます。特にマスメディアは今、安倍氏をけなすことに躍起になっていますが、それなら、なぜ安倍政権下で毎回国政選挙に自民党が勝ち続け、こんな長期にわたって政権が担当できたのかをきっちり総括すべきでしょう。

 という意味で国葬問題を考えたいと思います。小生にしたら実は、国葬であろうと、内閣・自民党合同葬であろうとどうでもいい。いずれにせよ、安倍氏はそれなりの功績があったのですから、それは当然讃えられるべきですが、形式は何でも良かった。最初に岸田首相が国葬を言いだした時に、なぜそんな形式にこだわるのかと思いました。要は、選挙期間中に凶弾に倒れた悲劇性を背景に、安倍氏のバックにいる国内の保守勢力を岸田支持層に取り込みたい-などの思惑から岸田氏は決めたのでしょう。が、野党に相談しなかったなどの手順を踏んでおらず、ちょっと早急の感は免れません。

 ただ、国葬と決めたのは、岸田首相の”高邁な”政治判断なのでしょう。首相にはそのくらいの権限があってもいいと思います。形式論、手順論はともかく、首相官邸が決めた以上、もう粛々と進めるしかありません。国葬反対論の半可通は、税金が使われることに怒ったりしていますが、内閣・自民党合同葬だって、自民党葬だって税金は使われます。自衛隊の儀仗隊は派遣されます。それほどの違いはないのです。

 立憲民主党は、岸田が国葬を言った直後は大した反応は示さなかった。だが、メディアの世論調査で反対意見が5割を超えると、にわかに国葬反対の強硬姿勢を打ち出すようになりました。ご都合主義です。国会の閉会中審査での泉代表にもあきれました。「国葬は誤り」などと形式論にこだわって追及したのは噴飯ものです。立憲議員の中には鬼の首でも取ったように「国葬会場に行かない」などと表明している人もいます。それらは、多くの有権者の賛意を得るものか、よくよく考えてみるべきでしょう。

 同じ政治家であるなら、それは反対党であっても、一応の敬意と評価の気持ちを示すべきです。昔、国会議員の追悼演説は反対党の議員がやっていました。死者に鞭打たない、死ねばだれでも善人というのが日本人の情緒です。もし、野党側がそうした情緒をなくしたら、心ある支持者は離れて行くでしょう。泉代表の発言で、次期国政選挙でまたまた立憲議員が減っていくことになりかねません。

 上の写真は、靖国神社の大鳥居と千鳥ヶ淵戦没者墓苑の祭壇。8月のお盆明けにお参りしてきました。叔父が泣く泣く婚約者と別れて戦地に行き、フィリピン・ルソン島で戦死していますから。