つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

二番煎じでバイアスがかかる新聞など要らない

 先日、台湾メディアの東京駐在の現役記者と夕食を共にする機会がありました。その時、彼女が嘆くことが小生には想像もできなかったことだったので、ここに記しておきます。それは、彼女が台湾のある著名人をインタビューして、しばらくしてからその原稿を書こうと一服していると、本社から「インタビューしたんだろう。原稿を早く送れ」という矢のような催促の電話がかかってきたというのです。

 どうもインタビューされたご当人がSNSで、記者と会ったこと、さらにはその中で大きなニュースを提供したことまで発信してしまったようなのです。その情報は台湾にも達し、同地のメディアも知るところとなり、取材した記者の本社では「お前が単独でインタビューしたのに。すでに他社がキャリーしているぞ」とかんかんだったと言います。つまり今の社会は、取材された当人が発信元になって情報が世間に広まってしまい、もう記者のニュース発信などそれほど重視されない感じです。

 取材源が情報発信することで有名になったのはトランプ前米大統領でしょうか。彼は思ったこと、知らせたいことをすぐにツイッターで発信しますから、トランプウォッチャーはそれに注目しますし、担当記者はツイートを記事にするしかありませんでした。ツイッターですでに世間に広まっている情報を記事にするって、実に情けない。これって本当の意味でプレスの記者と言えるのか。記者にとっては嫌な、悲しい渡世になってしまったという感じがありました。

 でも、冷静に考えれば、取材源の発信が一番理にかなっている。受け取る方も一番信頼する。取材記者は他人から聞いた話を自らの咀嚼の中で加工して記事にするため、多少バイアスがかかるのは否定できない。であれば、トランプ大統領の本心を知りたいと思う人たちは、取材記者が作り出す二番煎じの記事より、ストレートに本人の発信やコメントに接した方が分かりやすい。という意味で、記者のレゾンデートルが徐々になくなってきているように思えてなりません。

 今、文字、動画、絵のツールにかかわらず、だれでもSNSで情報発信ができるし、しかもその発信の時や場所も自由に選べます。小生はメディアの第一線を離れてすでに20年近くなりますが、SNSが発達したこんな時代に現場の取材記者をしなくて良かったとしみじみ思います。と同時に、今も一線で二番煎じの記事を書き続けている記者諸兄、諸姐のご苦労に本当にご同情申し上げます。

 今、新聞が売れないそうです。その代わりに、ユーチューブ,SNSの短信などの動画サービスに人気が集まっています。新聞は所詮二番煎じの文字情報です。さらには、テレビのニュース動画にしても、編集者がいかようにも編集、加工できるためにバイアスがかかる余地があります。という意味では、中間の”加工人”がいる限り、新聞もテレビのニュースも100%信じられるものでもありませんから、すたれていく運命にあるように思われます。

 テレビでは、録画という”加工品”より、実況中継が好まれるそうです。大きな事件や話題の人が記者会見する時に長時間にわたる実況中継が多いのはそのためかも知れません。この傾向はすなわち、中間の”加工人”を外すことで、テレビも徐々にインターネットの動画に触発されてストレート系の映像で勝負しようとする形に変わってきているのかも知れません。

 バイアスをかける記者の存在はますますいらなくなるし、ましてや曲解したり、意図的な内容であったりする記事など不必要になってくる。どこかの新聞のように「街を歩く女性が強制連行され、従軍慰安婦にされた」などとデタラメ記事を書いたり、自らサンゴ礁を傷つけながら「こんなことをするヤツは誰だ」などと優等生ぶり、実は偽善者でしかないメディアなどはますます不必要な存在になるのでしょうね。

 上の写真は、東京・上野のマルイデパート食品売り場で見たパン屋さんとケーキ屋さん。どちらも有名店だそうで、多くの人が並んでいました。