つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

習近平、どう見ても独裁者、指摘されなぜ怒る?

 文章を書くことを生業(なりわい)にしてきた人間からすると、どうも「食べれる」などという「ら抜き言葉」にはいまだに抵抗があります。今日朝、テレビのワイドショーを見ていて、ジャニーズ系の若者が「…が感じられる」と言うべきところを「…が感じれる」と話しているのには驚き、とうとうそこまで行ったかという印象でした。実際、どうだろう。「感じれる」と「感じられる」の2つを発音してみてどちらが言いやすいか。すぐに分かることです。

 恐らく、ら抜き言葉が最初に使われたのは「食べれる」ではないでしょうか。ここからスタートし、他にも伝播していったに相違ありません。「食べれる」なら言いにくさはないので、80歩くらい譲ってまだ許せます。ですが、「感じれる」となると何だ別の言葉を聞いているようで、許容できません。かつて小生が文科省記者クラブに在籍していた時の記憶ですが、当時の国語審議会は、多くの委員の先生方が違和感を感じながらもら抜き言葉を正式な日本語として追認してしまいました。小生からすれば大問題。「感じれる」には100歩譲ってもかなりの違和感を感じます。

 確かに、話し言葉としては一音でも少なく話した方が便利。だからら抜き言葉がはやるのでしょう。外国でもリエゾンみたいな表現が出て来るし、英語でも「I want to go」と言うべきところを「I wanna go」みたいは表現になります。日本語でもイ音便、ウ音便、「っ音便」みたいに発しやすい方に転化していきます。ら抜き言葉も少なくとも話の中でならまだしも、文字にして書く場合はいかがか、今さらながらじっくり議論すべきかと思います。

 違和感と言えば、先日、バイデン米大統領習近平中国国家主席のことを「独裁者(バイデンはdictatorと発音)」と表現したところ、中国外務省の報道官が怒って反駁していました。これにも正直、かなりの違和感を持ちました。習近平はどう見ても、今、中国の独裁者でしょう。民主主義的手続きで選ばれたわけでもなく、熾烈な党内の権力闘争で勝ち上がってきた人。そして、党中央の指導部を見てもすべて彼が抜擢した人間ばかり。国務院の権限を上回る党中央の指導小組もすべて習近平が組長をしています。

 中国は本来、政治局常務委員会や政治局会議の多数決で物事が決まるシステムなのですが、現在の実態はそうではない。「習近平、説了算(習が発言すればそれで決まり)」「習的一言堂」という状態です。だから、中国の党幹部はだれもが自由な発言などできるわけはなく、上ばかりを見ているヒラメ人間ばかり。中国の一般大衆の誰もがそう思っており、外国人もそう見ている。それが現実なのに、特に米国辺りから「独裁者」と言われると反発するのは面白い。正鵠を得ているだけに、やはり気に障るのか。

 でもよくよく考えてみれば、中国は自らの社会主義の体制について「プロレタリア独裁」という言い方をしていますね。中国語では「無産階級専政」と言いますが、英語では「dictatorship of the proletariat」と翻訳し、dictatorを使っているのです。「共産党の独裁」という表現ならいいが、「習近平の個人独裁」を指摘されることに抵抗を感じるのか。でも再三繰り返しますが、今の中国は、明らかに共産党の独裁というより、習近平の独裁という言い方の方が正しい。それが実態です。

 まあ、外国のことですから、ある意味どうでもいい。中国人がそういう体制を許容しているのなら、しょうがない、勝手にしてくれといった感じ。他国人がとやかく口を挟む問題ではないのです。でも、ロシアの独裁者には文句を付けたくなる。それは、平然と他の独立国家の領土を踏みにじって自らの領域としているからです。迷惑です。この侵略戦争プーチンがいなくなれば収まると思うだけに、ロシアの独裁体制はやはり恐い、彼の独裁は早く終わって欲しい。

 上の写真は、福井駅前の恐竜モニュメント。