つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

血は争えない、高齢でやはり相撲好きになった

 その昔、小生の祖父は大相撲が大好きで、テレビのない時代、ラジオの近くに座って実況放送を耳を澄ませて聞いていました。今考えると、ラジオの中継なんて何が面白いんだろうと思いますが、本人にしてみたら、アナウンサーの実況放送を聞いて土俵上の力士の動きを想像していたのでしょう。画面はなくとも想像の世界でそれなりに楽しめたのだと思います。ラジオにはそれだけの効果がありました。小生も小さいころ赤胴鈴之助まぼろし探偵、ビリーパックなどの連続ラジオ劇に胸を躍らせていました。

 やがて我が家にもテレビが入り、祖父もテレビの中継を見るようになったのですが、小生の強烈な印象として、祖父はそれほどテレビの中継を楽しんでいるようには思えませんでした。やはりラジオの音だけの世界で、実際の動きを想像させる方が画像より良かったのかも知れません。小生はラジオだけの時代も、白黒テレビ、さらにはカラーテレビに替わった時も知っていますが、やはりラジオよりテレビがいいし、白黒よりカラーがもっといい。最大に感動したのは厚さのあるブラウン管テレビから薄型の液晶テレビに変わった時。画面がより鮮明になり、臨場感が増して興奮しました。

 それはともかく、ガキのころ「爺さんはなんであんなに大相撲が好きなんだ」と思って半ば呆れていましたが、70歳過ぎの小生の現在を見ると、昔の祖父と同じようにテレビの大相撲中継にかじりついています。血は争えない。親父もまわしを締めて街の相撲会に入り、実戦もしていたくらいに相撲ファンでした。小生は青年時代に実戦こそしませんでしたが、子供のころ遊んだ相撲を思い出して、今でも取り口にうるさい。下手な相撲を取る力士がいると、「あいつなんで上手にこだわるんだ。はず押しのまま行けばいいのに」「もっと足を使って回り込め」「もっとかいなをかえせ」などと思わずテレビ画面に向かって叫んだりします。

 というわけで、大相撲中継があれば、BS放送で毎日幕下上位くらいから見ています。前にも書きましたが、相撲取りとして給与がもらえるかもらえないかの分かれ目となる幕下上位と十両の取り組みが一番面白いのです。特に、以前は幕内まで行って活躍したけど、今では幕下にいるという力士にとりわけ興味があります。勝負の世界ですから、全員が再び十両に戻れるわけではないのですが、一生懸命さが伝わって来ますから。中には、年齢的な問題で、もう上に上がれないと思える力士もいますが…。

 今秋場所は幕内上位陣がドングリの背比べであり、昔の白鵬のように抜群で独り勝ちする力士もいなので、それなりに楽しめます。横綱大関4人のうち3人がモンゴル出身者というのは気に入りませんが、今場所はそのモンゴル勢は負けが込み、久しぶりに日本出身者の優勝が見られそうです。やはり、日本人優勝の方がその出身地方が盛り上がるので、長い目で見た場合、絶対大相撲の振興には役立つと思います。豊昇龍や霧島の体型、粘り強い相撲の取り口は小生の好きなタイプなのですが、日本の地方とつながりがないという点からすると、彼らの優勝は感心しません。

 大相撲の話題についてさらに触れると、昨日驚いたのは豊昇龍と琴の若との結びの一戦。物言いがついたほどに微妙であったのは事実ですが、行司の式守伊之助は勝負がついた後も、軍配をどちらに上げるか迷っていたこと。確信が持てなかったか、しっかり見ていなかったせいでしょう。明らかに”迷い団扇”していたのには驚きました。彼は結局、攻め込んでいた豊昇龍を有利と見て軍配を西に上げましたが、豊昇龍の足先が返っていることから判定は琴の若に上がり、差し違えとなりました。

 伊之助の差し違えはこれで都合何回になったのだろう。長年行司をやっている割には見方が甘い人です。目の着けどころは、どちらが先に土俵を割るかどうかばかりでなく、足先の返りや手、膝の土俵着きまで気を配るべきなのです。その辺で彼は劣っています。そろそろ自主退職した方がいいのではないか。ついでに、彼の発声も変に気取っていて感心しません。彼がやるべきことは、気取った発声よりまず行司裁きを優先させることでしょう。

 上に写真は、福島・一切経山の下山途中で見た東吾妻山。火山口が美しい。下の方は、一切経山山中で見たキリン草。登山で見る高山植物にはいつも感動します。