つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

人間も死を迎えたら、本来自然に還るべき

 毎朝、自宅近くの横浜・野毛山公園を散歩していますが、その途中にある小さな池には季節折々の変化があり、興味を持って眺めています。今はスイレンの葉が池の多くを覆い、その周囲のわずかな水面にカモやサギのような鳥が舞い降りて水の中をつついています。これらの鳥は真夏にはいなかったのですが、秋の訪れとともにいつの間にか戻ってきました。池の深さがサギの足の長さくらいしかないので、鯉もさすがにスイレンの中には潜れないようで、狭いスイレン周囲の水中で半分顔を出すようにして泳いでいるのが面白い。

 そして、池の周りの陸地にはかなりの数のハトが群れています。この辺りに多いのは恐らく餌をやる人がいるので、じっと待っているのでしょう。実際に、池の坂の上にあるベンチのところで、餌をやっている人を見たことがあります。ハトやリスはこの餌やりの人を覚えているようで、餌を撒かないうちからもう相当数のハトが舞い降りてきます。さすがにリスは用心深く寄って来ません。ただ、人の手が届かないところの木の下に餌を撒くと、どこからともなく現れて餌を持っていきます。動きがなかなか可愛い。

 鎌倉に行った時に、寺社の境内などではお供え物が豊富ですから台湾リスが至る所にいて、人間が近くにいるのに寄ってきて供え物や人の食べ残しを奪っていきます。野毛山公園のリスに比べて鎌倉のリスはなんと”世間馴れ”していることか。カラスはハトの天敵のようで、野毛山公園ではカラスが来るとハトは一斉に逃げます。でも、餌やり人が持ってきた餌をハトが食べ終わらないうちにはカラスは降りてきません。という意味では、カラスもハトに対して一定の配慮があるのでしょうか。

 それはともかく、今回話題として取り上げたいのは、あれだけハトやカラスがいるのに公園内で彼らの死骸を見たことがないこと。新しく命が誕生すれば、当然死ぬ奴も出て来きますよね。でも少なくとも小生の散歩コースから見える範囲で死骸を見つけたことはないのです。いったい彼らはどこで死を迎えるのだろう。つまらない関心と言えば、そうなんでしょうが、自然界の摂理というのは分からないし、興味が尽きない。

 子供のころ、アフリカの象のドキュメンタリーを見たことがあります。象は群れで暮らしますが、自分の死期を悟ると自らその群れから離れ、独り分かりにくいブッシュの中に入り込んで、そこで息を引き取ったのでした。本来動物って自らの死を他に見せたくないという思いがあるのかも知れません。昔千葉に住んでいた時、当時は飼い犬も放し飼いだったのですが、隣家の犬がいなくなりました。結論は、犬が死期を悟って自ら主人の見当のつかないところに行って死んだのではないかというものでした。

 それに比べたら、人間の死っていかにもにぎにぎしい。葬式などやって、さらには法律で決まっているからでしょうが、ご丁寧に遺体を荼毘に付して壺に入れて埋葬するのですから。まあ死体なんて所詮ウジが湧き、汚物に他ならないので、衛生上は早くに焼却し、骨は壺に収めた方がいいとも言えますが、本来生物は土に帰るのが摂理。という意味では人間も本来は土葬がふさわしいと思います。ただ、全世界人口80億人となると、土葬の場所もなくなりそうです。

 こんなことを考えたのは、ウクライナ戦争に加えてイスラエルハマスの新たな戦いも始まって、がれきの上で黒いビニールにくるまれた多くの遺体が並べられた光景を見たからです。本当にばかな戦いをしているものだと思う半面、あの黒いビニール遺体はどう葬られるのかに興味を持ちました。ウクライナではとても火葬は間に合わないようで、広大な土地に穴を掘って土葬にしている映像を見たことがあります。領地の限られたガザ地区ではどう処置されるのか。

 まあ、火葬というのは高熱で燃やすので膨大なエネルギーを消費し、コストがかかります。それが難点です。日本ではまた、火葬場が少ないせいか、大都市などでは随分と待たされます。知り合いのケースで一カ月近くも待たされたことを承知しています。というような現実を見ると、小生にその時が訪れたら、人知れず山の奥に入って息絶え、自然に帰るのがいいのかなどと考えています。でもその時にそんな体力があるかどうか。いずれにせよ、今のところ健康に生活しているので、そんな状況はまだだいぶ先のことだと信じていますが…。

 上の写真は、横浜伊勢佐木町モールにある「伊勢佐木町ブルース記念碑」。そのわきのホールで青江三奈遺品展をやっていたので見てきました。彼女は今生きていたら82歳とのことです。