つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

中国、自信あれば一国二制度などと言わないはず

 香港が英国の植民地から主権返還されて中国に併合された時、つまり1997年7月1日の時点で小生は香港でメディアの記者をしていました。ですから、その流れをつぶさに見ていますし、本も書いています。ついでに言えば「1997香港・中国大衝突」という題名で、1996年に総合法令出版社から出しています。返還後の香港の将来を予測した内容です。作者名は「石川羅生」というペンネームを使いました。日本の住居は横浜の石川町にあったことから姓は「石川」とし、名は尊敬する小説家の芥川龍之介の作品「羅生門」から拝借しています。

 なぜペンネームを使ったかということですが、当時所属する会社が勤務時間内に社業に関わること以外するべきでないとの方針から、社員の社外執筆を厳しく規制していたからです。そこで仕方なくそんな名前にしました。その後、いくつかの雑文にこのペンネームを使いましたが、それだけです。今では、時代小説を書くときも本名の「日暮高則」を使っています。今さら、本名を使っても誰にも迷惑をかけないし、遠慮もない。素性を隠しても意味がないからです。

 それはともかく、今、香港は返還時に比べて大きく変わったようです。かつて5年ほど住んだことがあり、帰国後も2年に1回ほどのペースで訪問していました。中国に返還され、一国二制度になってからの変遷を見続けたかったのです。それで最後は4年ほど前に行きましたが、コロナ禍のために残念ながらその後は行っていません。明後日12月4日から4日間、久しぶりに訪問します。主たる目的は銀行口座の閉鎖ですが、それを機会に、香港の変化をじっくり見てみたいと思います。

 香港の政治的な変化は、いわゆる雨傘運動の結果、北京当局の圧力が強まり、民主運動家が次々に逮捕され、事実上北京の悪口、特に習近平主席の悪口は言えないようになってしまいました。一国二制度の50年不変を言っていたのに、大変残念です。一国二制度は鄧小平氏が言い出し、大変うまい方法だとして返還前に香港人も支持し、スムーズの返還が図られました。でも、よくよく考えれてみれば、中国が本当に自国の制度に自信を持っているなら、二制度などにする必要はなかったと思います。

 本来、中国は社会主義のこんな素晴らしい国なんだから、政治制度を含めて我々の胸に飛び込んで来いと言うのが筋です。ですから、一国二制度などという論法は自信のなさを感じるし、小生は、最初からうさん臭さを感じていました。「香港・中国大衝突」でもその点を指摘しています。そして、小生はこの本の中で、香港は50年を待たずに、やがて他の中国都市と同様になる、ワン・ノブ・ゼムになっていくと予測しました。今の情勢を外から見ると、少なくとも政治的にはそういう状況になっています。

 でも、政治はともかく、経済はどうか。街中の様子はどうか。一般市民の使っている言語はどうか、英語は使えるのか、マンダリン(北京標準語)はどの程度まで普及しているのか。興味があります。まあ過去の経験から、香港人はマンダリンを使えても、ビジネストーク以外、この言葉を使いたがらない嫌いはありましたが…。それをぜひ今回の訪問でその辺のところを見てみたい。感じてみたい。

 でも、香港の友人に会うにしても、現地の人や大陸からの人と会うつもりはありません。日本人の友人に限ります。今、大陸では日本人がスパイ容疑で捕まるケースが多く見られ、その傾向は香港でもなしとも言えないからです。70歳過ぎの老齢になってスパイにされ、獄につながれるのも嫌だし、会う相手に迷惑がかかってしまってもまずいです。一応ジャーナリストの端くれなので、本当は取材をしたいのですが、人との接触は避けます。

 上の写真は、宮崎県の秘境・高千穂峡の有名な「真名井の滝」と紅葉風景。