つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

倍賞千恵子さんの死生観に考えさせられた

 日本経済新聞の「私の履歴書」というコラムを愛読しています。取り上げられる人は月替わりであり、今月は女優の倍賞千恵子さんでした。小生の好きな女優の一人であるので、特に熱心に読みました。このコラムで本人も強調していますが、私生活でも全然気取らない、自然に生きている様子で、映画の中からもその”個性”が醸し出されています。映画寅さんシリーズでの「さくらさん」もそうでしたが、高倉健と共演した「幸福の黄色いハンカチ」や「遥かなる山の呼び声」での役柄も良かった。何か庶民的な奥さん役をやらせたら、天下一品だと思います。

 でも、今回は倍賞女史の役柄や演技を論じるのでなく、このコラムに書かれた内容に触れます。彼女はコラム最終回の今日、冒頭で「もし政府が75歳上になる人に安楽死の権利が与えると決めたら、どうするか」という死生観に関する深淵なテーマをいきなり投げかけてきました。半分眠気含みで読んだ文章でしたが、これで眠気が吹き飛びました。へー、倍賞さんもこんなことを考えていたのかという驚きと同時に、自分も来年はその年に達するので、なんと答えようかと頭を巡らせました。

 前にも触れたことがありますが、小生は安楽死は基本的に賛成です。どう生きるかという生死については個人の問題であり、最終的にその結論が「死」という選択となっても、それはそれでいいのではないか。例えば、植物人間になった時、小生はチューブにつながれてまで生きたいとは思わない。ですから、内人にはそう告げています。厳密には遺言も必要なのでしょうが…。チューブまで行かなくとも、まだ自らの意識で選択できる場合でも、体力的、気力がもうどうしょうもなく衰え、今後が望めなくなった時に自ら死を選ぶのもありだと小生は思います。

 世界を見ても、オランダやカナダのように安楽死を認めているところがあります。その意味では、人間の自由、尊厳を重んじる先進国では今後、そういう流れになるのではないかと思っています。安楽死を認めようと認めまいと死にたい奴は勝手に死ねばいい、青木ヶ原もあるし、都会、郊外にも”名所”もあるではないかという人もいます。でも、自ら進んで青木ヶ原や自殺の名所に行くのは大変勇気が要りますし、第一その処理に関して他人に大きな迷惑をかけてしまいます。

 その点、安楽死が認められたら、どこか専門のホスピスのような療養所に入って、苦しまずに徐々に死を迎えられます。例えば、そういう薬物を与え続けられればいいのですから。今なら、介護者は自殺ほう助罪に問われますが、法的に保障されているなら、それが可能。以前、姨捨山のことを書きましたが、これは、一定地域における食物上の許容量、フィーディングの問題であり、本人の意思とはかけ離れています。死の選択はあくまで本人の自由意思に基づくことが絶対必要です。

 今日のコラムで、倍賞さんはまた、死んだら自然に帰りたい、ご亭主さんに花車で海まで運んでもらい、遺灰を海に流してもらいたいとも書いています。これでこの女優さんがますます好きになってしまいました。死後の話も以前当ブログで書きましたが、動物は本来自然に帰るのがスジ、陶磁器に入った遺骨などを残すべきではないのです。まして子供や孫のいない人にとって後々だれが拝んでくれるのか。倍賞さんも小生と同じように子供がいないご夫婦のようなので、そういう考えに至ったのかも知れません。

 でも、気力、体力があるうちは安楽死も海洋散骨もまだ遠い話。倍賞さんのように多額の収入を得ている人は健康である限り、その選択の必要はない。斯くいう小生もつたない年金、アルバイト収入暮らしですが、まだ健康。次の原稿はどう書こうか、次の旅行先をどこにしようかなどと考えているうちは、そういう思考には至りません。当面、来年ものんべんだらりと生きていこうと思っています。

 上の写真は、自宅近くの野毛山公園で見た寒椿。下の方は港の見える丘公園で咲いている冬薔薇(ふゆそうび)。寒い中で見事な花を咲かせるとは健気です。小生も斯くありたいのですが、やはり暖房器に当たってぬくぬくと生活しています。