つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

永倉新八がテーマの時代小説(2)

 

 「散切り頭の新八独り旅」その1          日暮高則

 不動堂村の屯所跡から西本願寺までは、醒ヶ井通りをそのまま北に上がって七条に至ればよい。だが、新八はまっすぐに寺院に向かわず、北側一本目にある東西の木津屋通りを右に折れて油小路に向かった。

 木津屋通りと南北筋の油小路通りが交わる角。屯所から二丁もない。ここは新選組にとって忘れられない場所である。

 慶応三年十一月十八日、新選組が分派組織である御陵衛士頭目伊東甲子太郎を惨殺、その骸を“囮(おとり)”にして御陵衛士隊員をおびき寄せ、皆殺しにしようと図った場所なのだ。

 <あの日は底冷えのする寒い夜だった。池田屋で一緒に戦った藤堂平助と刃を交えるとは考えたくもなかったが、現実になってしまった。悔しく、つらい出来事だった>

 東西に延びる七条通りは今でも間口の空いた商家が櫛比している。だが、人二人がやっとすれ違えるほどの南北の小道、油小路の方には、双方に高い黒板塀が寒々とつらなり、通りの人を拒絶するような雰囲気を醸し出していた。

 黒塀からはわずかに見越しの松の先端がせり出しているので、塀の向こうに庭があり、人の営みあることを感じさせる。

 新八は油小路と七条通り角に立って、たばこ入れからキセルを抜きだした。火打ち石に金を打ち付け、火口(ほくち)を燃やし、煙草に火をつけた。

 深く吸い込むと、「ごほん、ごほん」と少しせき込んだ。

 紫煙の中で記憶をたどると、真っ先に浮かんでくるのはやはり試衛館道場以来の仲間であった藤堂平助の顔だ。

 <あの時どうして彼を助けることができなかったのか>

 後悔と自責の念が改めて新八に迫ってきた。

 

 江戸深川で北辰一刀流の剣術道場を開いていた伊東甲子太郎が門下生とともに上洛して新選組に加わったのは元治元年(一八六四年)十月のことだ。

 それより遡ること四カ月前の六月五日、新選組は不逞浪士が集まった三条小橋の池田屋を急襲し、浪士を殺害し、絡めとった。それに続く七月、長州軍が禁裏を攻めた蛤御門の変でも新選組は活躍したことで、その名は江戸にも知れ渡っていた。

 その高名を背負って近藤勇局長は同年九月初め、意気揚々と江戸に下向した。江戸城重役への奉告や新規隊士募集が主な目的だった。

近藤がその新隊士募集の中で会ったのが伊東甲子太郎で、江戸に同行した藤堂平助の紹介だった。伊東は近藤の話す尊王攘夷論に共鳴、誘いに二つ返事で応じ、門下生とともに新選組に合流することを約した。

 伊東は剣術も一流だが、学問も究めていた。国学を学ぶうちに尊王攘夷の思想を強く持ち、その学才を発揮する場を求めていた。耳目が集まっていた京でその場を与えられるとしたら、願ってもないことだと思った。

 近藤は一応の攘夷論を話すが、話の内容からから彼の学問が浅いことを知った。

 <これならば、自分が新選組に加われば、隊士に我が思想を伝授し、説得し、最後に組織全体を自らの意のままに動かせる集団に変えられるのではないか>と伊東は考えた。

 その旨を実弟鈴木三樹三郎、高弟の篠原泰之進ら道場の門下生にも伝えた。

 「近藤なる男、それほどの人物にあらず。剣は優れているのかも知れぬが、思想がない。儂が話せば新選組隊士を説得できる」

 「兄上は畢竟、どうしたいのか」

 鈴木三樹三郎が聞いた。

 「決まっておろう。新選組は今、会津中将のお預かりとなって佐幕一筋だが、儂の弁舌で勤王大事の方向を変えて見せる。いつまでも幕府大事でもないだろう」

 「できるでしょうか」

 「できるとも。幕府の屋台骨は壊れつつある。また、剣しか分からぬ男に時代を見る目はない。一統は露頭に迷うだけだ。儂が助けてやるのよ」

 そうして伊東一派は新選組に加わった。

 だが、新選組には冷徹な目を持ち、策謀家でもある副局長の土方歳三がいた。

 元治元年十月に伊東一派が加わってから二年半、ずっと伊東の動きを観察していた土方は徐々に猜疑心を醸成していった。

 土方の監視と猜疑の目は伊東にも分かった。そして、新選組を丸ごと勤王大事に変えるという自らの野望が貫徹できないと判断するに至った。

 新選組の中でも、尊王攘夷の思想に共鳴し、肝胆相照らした仲の副長山南敬助が脱走して捕まり、切腹に追い込まれたことも、彼の失望感を増幅させた。

 伊東は慶応三年(一八六七年)三月、「亡くなられた孝明天皇の御陵を守る武士として、独立したい」と近藤に告げ、自派の分離独立を申し出た。

 本来なら、新選組隊規によって「組を脱する者は切腹」であるが、伊東は弁舌さわやかに「これは分離であり、脱退ではない」と言い張り、近藤を説得させた。分離なら切腹には当たらない。

 土方は近藤の承諾を苦々しく聞いたが、近藤の決定であれば致し方ない。ただ、一言付け足すことも忘れなかった。

 「近藤さん、伊東はついに本性を表したようだ。分離なんて汚ねい真似しやがって。奴には魂胆がある。早いうちに叩き潰さねいと飛んでもないことになりそうだぜ」

 二人だけでいる時は、多摩訛りが混じった率直で遠慮ない物言いになる。

  土方の目には、伊東とその一派が新選組に仇なす存在になると映っていたのだ。

 土方の言い分に対し、近藤はあくまで冷静だった

 「儂も分かっているよ、歳さん。しばらく待とう。様子を見よう。いずれ狐がしっぽを出すだろうよ」

 近藤も愚かではない。伊東の隠れた狙いを見抜いていた。騙された振りをして、油断させようと考えていたのだ。

 伊東は分離に当たり、二番隊長の永倉新八、三番隊長の斎藤一、八番隊長の藤堂平助も分離組に同行させるよう求めてきた。

 藤堂平助は、口数は少ないが、見た目はさっそうとしている美青年である。千葉周作北辰一刀流玄武館」門下で、印可は目録まで進んだ。伊東とは学んだ道場は違うが剣術の流派は同じ。学問上でも伊東の門下生で、尊王攘夷思想を彼から植え付けられている。

 藤堂は京に上る前、試衛館に居候をしていたので剣の師匠格の近藤勇に親しみを感じているが、学識のある伊東にも敬意を払っていた。新選組の隊内で講義を受けてますます彼の思想にはまっていった。だから、伊東が新選組からの分離独立を宣言すると、藤堂は迷うことなく分派組織の御陵衛士に加わった。

 永倉新八斎藤一の二人は、伊東が新選組入りしたあとに誼みを通じ、行動を共にすることが多くなった。伊東は江戸で北辰一刀流を学ぶ前、生まれ故郷の常陸から水戸に出てしばらく神道無念流の道場に通っていた。そのため、新八は伊東を剣で同門であると思いっていた上、尊王攘夷思想にもいささか共鳴できるところを感じ、親しみを覚えていた。

 斎藤は江戸の御家人の子弟。「一刀流を学んだ」と言うが、江戸の町道場を転々としたためにきちんとした伝位を得ているわけではない。だが、実戦では凄腕の剣さばきを見せる。

 つまり剣一筋の粗野な男で、少年時代に武士の素養である漢学などに触れたこともない。が、その分、今は学ぼうとする姿勢を見せ、折に触れて伊東に接し、教えを乞うていた。

 だから、伊東は二人を江戸から同行した同志と同等と見ていた。いや、そればかりではない。二人の剣の腕を高く評価し、将来起こり得る事態を思い描き、強い味方を望んでいたところもあったのだろう。

 実は、この年(慶応三年、一八六七年)の正月にはこんなこともあった。

 伊東は自らの門下生隊員のほか、新八と斎藤を誘い、遊里島原の妓楼角屋に登楼。翌日、門下生は帰したが、新八と斎藤を残してさらに馴染みの芸妓を呼び寄せ、三日間にわたって流連(いつづけ)したことがある。

 その時に新八が呼んだのは馴染みだった亀屋の小常で、その直後に新八は小常を落籍している。小常のお腹にはすでに磯がいたのだ。

 妓楼に居続けて帰隊しないのは新選組の隊規違反である。本来なら切腹ものだが、副局長格の伊東が近藤と掛け合い、その結果、新八と斎藤は微罪で済んだ。

 伊東が御陵衛士を作るときに二人を誘ったのは、こうしたいかがわしい共同行動を通して気心が分かり、心が通い合えたと判断したからだ。

 だが、新八は伊東の呼びかけに応じず、御陵衛士には加わらなかった。理由は分からない。近藤と伊東という人間を測りにかけて近藤を選んだのかも知れない。

 あるいは最後のところで伊東のうさん臭さを感じてしまったのかも知れない。近藤はのちのちの事態を考えて、新八には御陵衛士には加わらないよう強く説得したこともあった。

 一方、斎藤は伊東と行動を共にし、御陵衛士の一統に入った。

 ただ、これには裏がある。実は、斎藤は近藤から御陵衛士の動きを見張るよう言い含められていた。いわば密偵の役回りを請け負ったのだ。その意味では、斎藤一も伊東より近藤、新選組を信頼していた。

 御陵衛士とは、孝明天皇の御陵を守る武士という意味である。孝明天皇はこの年早々に身罷られている。前年辺りから新選組からの分離を考えていた伊東にとっては、天皇崩御はまたとないきっかけを与えてくれた。

 この年三月に新選組を離れた伊東と御陵衛士たちは当初、鴨川五条大橋近くの長円寺に居座ったが、六月には東山・高台寺の塔中月真院に屯所を構えた。それゆえ、別名高台寺党とも呼ばれた。

 高台寺は関白豊臣秀吉の御台所(正妻)で北政所と呼ばれた寧々が後半生を過ごした場所である。門を入って塔中に達するまでの石畳脇には、沿うように萩が植わっていた。夏から秋にかけて赤紫の可憐な花を咲かす萩は寧々の好みであったのだろう。

 池と石ともみじを巧みに配した庭園も素晴らしい。

 伊東と高台寺党がこの地に移ってきた時、萩はすでに薄紫のつぼみを付けていた。

 月真院に落ち着くと、近藤や土方が心配したように、一統はやがて近藤勇の暗殺計画を練り始めた。今の御陵衛士だけの人数では不十分、できれば新選組全部を乗っ取り、朝廷に対しその存在を知らしめたいという思いがあったからであろう。

 「近藤を葬れば、新選組は瓦解する。土方が統領では持つまい。…問題は、どこで近藤を斬るかだ」

 近藤暗殺に一番熱心だったのは、ほかならぬ首領の伊東自身であった。

 特に、この年十月十四日、大政奉還が成った以降は、話は具体性を帯びてきた。

 「近藤は屯所の近くに醒ヶ井に休息所(妾宅)を設けています。夜は恐らく女と二人きりでしょうから、寝込みを襲えば、うまくいくでしょう」

 篠原泰之進が進言した。元新選組柔術師範で、伊東の腹心である。

 「問題は時期をいつにするかです。大政奉還によって幕府方は今、混乱している。新選組も恐らく慌てふためいているのではないでしょうか。やるなら今です」

 「いや待て。近く薩摩軍が上洛する。年末にも京の周辺に集結するであろう。その時期に合わせるのだ」

 伊東は、近藤勇暗殺計画を慶応三年の暮れにも決行することを決め、同志の了解を得た。

 ただ、この計画は密偵斎藤一によってすぐに新選組の近藤、土方に伝えられた。

 <やはり伊東らは動き出したか…>

 近藤、土方はかねてよりの推量が当たり、複雑な思いにかられた。でも、感慨ばかりに浸ってはいられない。

 <先手を打たなければ、いずれ寝込みを襲われる>

 特に焦ったのは、狙われる近藤の方だった。

 ただ、同時に近藤には吹っ切れない思いもあった。

 <試衛館からずっと一緒で、池田屋でも一緒に戦った藤堂平助も儂を斬りに来るのであろうか>と考えると、暗澹たる気持ちになった。

 藤堂が近藤の下を離れ、伊東とともに高台寺党にいることの寂しさ、辛さが改めて近藤の胸に迫ってきた。(続く)

 上の写真は、東京・深川の富岡八幡宮の正面鳥居。